仕える

乾燥機を回している間に少し。昨日もそうなのだけど木曜日の夕方のミサで先唱として奉仕をしている。始めてまだ一年とたっていないのだけど、奉仕を通してミサに与れるようになってきた。度々失敗するし、失敗するだろうし、失敗した。言うべき言葉を言い忘れたり、言いよどんだりと。だけれど非常に嬉しいこともある。ある時、ミサが終わり香部屋に帰ってからその時司式されていた神父さまから今日の第一朗読の声ははっきりしていたし、力強くて非常によろしいと言われた。聖体奉仕者の方も同様のことを言ってくれた。自分の中では、その後の答唱詩編であるとかの躓きを気にしてまたやったと一人反省していたので非常に驚いた。何よりも恐縮であった。祭壇の片付けに向う途中に男性の信徒の方に呼び止められて同様の点で非常によかったと言われた。非常に嬉しかったのだが、ほんとに、ほんとに恐縮してしまった。
なぜならその日のミサ前まで自分の信仰に対して懐疑していたし、ほとほと何故私はこんな苦労をしないといけないのかと身勝手に呪って、ミサ中も身勝手に一人、自分のために祈っていたから(少なくとも私はそのつもりであったし、そのような気持ちであった)。
でも、その日以来、共にミサに与って祈る重要性は頭でだけではなく、身を持って理解できたと思う。無論、すぐに自分のことで手一杯になるので身勝手に祈るときもあるだろうけれど、その身勝手さすら典礼に組み入れらることで共に祈ることができてしまうことにミサのすばらしさと言うか、典礼の役割が何であるかを感じた。
なんにしろ、些細な失敗云々はあるだろうけれど、ミサにおいて私はいてかまわないのだし、ここで奉仕することがあたり前だと感じれる意味で全く動じないし、迷わなくなった。奉仕職で与るにしろ会衆として与るにしろ委ねてかまわないし、委ねるが故に安心できる。
しかしながら、ミサ以外ではそれができない。特に学問において常にキリキリしているし、他人に委ねられない、自分がやらなければと常に切羽つまってしまう。故に物言いもきつくなるし、不従順にもなる。
どうもごたごたまとまりがないが、メモしておく。