神学及中古哲学研究の必要

緒言

予は我和仏協会より一小冊子を公にして其トラクト事業に貢献せよとの名誉ある依頼を利用し、此冬季に東京帝国大学に於て講述せんとする主要なる題目即ち中古哲学史に就て聊か鄙見を陳述せんと欲す、されば予が此論を草するに當りて第一予の念頭にありつる者は帝国大学の学生なりき、故に予の言辭が主として彼等を標的とせること亦た自然の免るべからざる勢いなり。
1909年8月東京に於て ケーベル識

神学及中古哲学研究の必要

茲に神学といふは最も広き意味に用いたるものにて実は理論的実際的基督教全体及び旧新約全書の聖史を指す、是れ一語にて言ひ表すべき適当の語なれけばなり。
 東京帝国大学教授 ラファエル・フォンケーベル著

  • 第一篇

 中古哲学は日本帝国大学に於ては従来全く閑却せられたりしが今日も猶ほ閑却せられつつあるなり、予は是迄哲学史を講述するに際し数回之に就て述べたれども、之を講述するために用いたる時間は僅々二三週間といふも実は通計八時間及至十二時間に過ぎざりき。开は言ふまでもなく此の宏大なる問題を説明するに甚だ不充分なる時間なりき。されば予は此の短小なる時間に於ては中古歴史の不完全なる梗概を述ぶるに過ぎざりしなり。何故斯くのごとくなせしかと云ふに、決して予自身が此時代の哲学を重要視せず、又興味なしと思考せるが為には非ず。否な予に取りては最も大切にして興味ある問題なり、恐くは近代哲学よりも更に重要にして興味深き問題なり。然れども予をして中世紀時代を殆んど全く看過し、教室に於て恰かも我が愛好せる題目の一に不忠実なりしが如からしめたる所以は、予をして余儀なく爾かせしめたる二個の重大なる客観的理由ありしに依るものなり。
 予は学生が一般に此問題を嫌厭せるを発見せり、而して人は嫌う所のもの、好まざる所のものを決して研究する能はざるのみならず学生が嫌厭の状は教師をして麻痺せしむるものなればなり。是を第一の理由とす、次に大部分の学生は基督教の初歩にだも全く通じて居らず、而も中古哲学は徹頭徹尾基督教に関係するが故に、基督教に反対する論説にても基督教神学に就て多少の智識を有せざる者には全然不可解のものなればなり、是を第二の理由とす。
 今や予は学生諸君の中世紀に対する先入の僻見は段々減退し、基督教に対する諸君の感興と智識とは一般に増加しつつあるを信ず、されば諸君は従前の学生に比すれば一層善く中古哲学を了解し、一層大なる興味を以って其歴史の講義に耳を傾くるの素養を有るものなり、タトヒ興味を以って之を聴かざるまでも、諸君は之を聴くを嫌厭せざるうべしと信ず。
 本講義を草したる予の希望は諸君をして漸次に神学と中古哲学とに対する旧来先入の僻見を全く脱却せしむるために聊か貢献せんと欲するにあり。予は此目的を達する最良の方法(少なくとも神学に関しては)としては間接の方法を執るにありと信ず、換言すれば基督教神学の智識は単に其れ自身のために宗教家に向って必要なるのみならず(吾人は茲に宗教に就て論ぜず)猶ほ凡ての教育ある人即ち基督教信者たると然らざるとを問はず、苟くも身を歴史、哲学、文学若しくは芸術の研究に委ねんと欲する者には必要欠くべからざることを示すにあり。進学の知識なき者は基督教国(基督教時)の広大なる文物を理解する能はざること例へば恰かも希臘、羅馬の神話と昔話とに通ぜざれば古代の希臘及び羅馬の文学(詩)と近代文藝の多くとを玩味する能はざるが如し。
 諸君の見らるる如く、勿論予は只泰西教化の特別なる方面即ち欧州各国の智的生活中の或範囲に就て述ぶるものなり、此方面は基督教に通ぜざる人に取りては特別に難解なものなり。諸君の熟知せらるる如く過去二千年間の欧州文明の全体は其微細なる点に至るまで悉く基督教に其基礎を有することは歴史上明確なる真理なり、現時欧州の天地を動揺しつつある非宗教的、非基督教的運動に至るまでも此例に洩れざるなり、故に欧州の文明は其の基礎たる基督教の研究を忽諸に附せる者には全く明らかに了解せられざるなり、ゲーテ曰く「詩人を解せんと欲すれば詩人の国に往かざる可からず』(Wer den Dichter will verstehen, muss in Dichters Lande gehn)と、欧州文明の研究者も此の立派なる忠告に従い、其教化文明を産出せる所の基督教を研究せざるべからず。
 予の言の真理なるを悟るは難きことに非ず、諸君は其読書の範囲を拡張して哲学、文学及び其補助的学科の研究に着手せば直ちに予の言の真なるを知るや必せり、礴し之を研究するに方りては淺薄皮相にして他人の説を受け売りするを以って足れりとせず、自ら其妙味を鑑賞し得る真正独立の学者の如くせざる可からず、盖し諸君の有する先入の僻見は凡ての他の先入の僻見の如く畢竟此偶像に他ならざればなり、先入の僻見即ちPrejudiceといふ語は羅甸語のPrae(前)及びjudicium(判断)というふ二語より成り吾人が判断を下すべき権利を有する前に下せる判断即ち自ら実験研究せざる前に下せる判断、他人の噂に基ける判断、一方に偏せる読書(通常悪し方)、一方に偏せる教訓の純乎たる反響を意味するなり。
 予に就て哲学を専攻する学生は皆な予が哲学を講義するに際し度々本題を逸して他の学問の領分に入るを見るならん、予の之を為すは凡ての学問特に吾人が「心意の学問』(Geisteswissenschaften)と名くる部類に属するものは之を他の学問より全く分離する時は正当に論ずること能はざるを深く確信するに因るなり。此理は明白なり、即ち各個の学問は他の凡ての学問に依りて支持せられ随て直接間接に之に関連し相綜合して一体、一機関を構成するが故に其一部分、一支体を切断すれば全体に傷害を及ぼすを免れざるなり。而して此真理は神学に於て最も明白なり。神学は一方に於ては哲学と詩文学(例へば聖会が用ふる古代の外教より採用せる標号〈シンボル〉の如き是なり)、及び数千年来の宗教文物教化及び歴史の全発展の総計なり、結果なり、又神学は他の一方に於ては新文化、人類歴史の新時紀の揺籃なり、新学問、新哲学、新芸術、新文学の源泉なり。
 此事実は凡べての善良なる歴史が証明する所なり、而して予は此事実が既に神学に対する興味を喚起し、神学の研究は独り基督教徒と宗教家とのみに必要なりと云へる謬見を打破するに十分なりと信ず。勿論予は真面目なる神学研究が吾人の宗教信仰を益々強固ならしむることを否認するものにあらず、否な却つて予は高等なる精神教育を重んずる基督教信者は道理を以って其信仰を堅め、成るべく其信仰する所のものを理解することを(Intelligo ut credam)努むる義務ありと信ずるものなり、故に予はアンタベリーのカンセルモが『何故神は人と成りしか』(Cur Deus homo?)と云ふ其の有名なる論文に於て『信仰を得たる後に其信ずることを理解するを努めざるは怠慢なりと信ず』("Negligentia mihi videntur, si postquam confirmati sumus in fide, non studemus quod credimus intelligere")と云へる語に満腔の同意を表わすものなり。然れども他の一方に於て人は少しも神学上の教育を受けざるも立派なる信仰を有し得ることは問ふまでもなし、此種の実例は枚挙に遑あらざる程に多きなり。もしも神学上の教育が人をして信仰を得せしめるに必要かくべからざるものならしめば、信仰を有する者は独り高等の教育を受け智力の修養を有する者に限らるべきなり、幸いにして斯くの如き不都合なきこと確実なり、神学は信仰の母にあらずして寧ろ其の反対に信仰が神学の母たるなり。
 其は兎まれ角まれ、此所には吾人に関係なし、茲に今吾人が神学を説くは宗教家としてには非ずして、哲学、文学、歴史及び芸術の研究者として講述するものなり。而して之を研究するは世俗の学問と芸術とを一層善く理解し一層善く之を玩味せんが為なり、而して又之れが為に羅馬公教会が教ふるままに神学を研究するなり。諸君が神学の研究をなすに方りて予が第一に天主公教を研究するを諸君に勧むるは決して予自身が天主公教会のに属する故にあらずして、天主公教は基督教の純正なる形式なればなり、基督教の模範たり、根幹たるものなればなり、吾人の祖先の信仰なればなり、之に反して新教及び希臘教の如き異端及び離教はすべて其の枝葉なり、而も其の或者は不具不完全なり、而して其の総ては悉く変質せるものなり。変質せるものに就て変質せらるるもの、純正なるもの即ち吾人の感興を引く所のものを研究するは正常ならず、仮に之を研究するとするも之を理解し能はざること恰も河川の本流を離れて成形せる所の濁りたる池沼を見るも其河流の観念、其河水の色、性質及び純粋なるものの観念を得る能はざるが如し。加之変質せらるるもの即ち純正なるものの智識なければ其等変質せるものすらも明らかに正しく了解せられざるべきなり、仮に夫等の変質せるものが原始の教えよりも一層純粋に基督教を代表するとしても然るなり。
 中世紀の哲学が神学の肩に據りて立つことは吾人のすでに知る所なり、然り実に中世紀哲学の最大なる代表者たるものは神学上の信条を科学的に論理的に証明せるものに外ならざるなり。故に歴史の研究者が是等の信条を知らざるべからざるとは茲に証明を要せざるなり。のみならず諸君若し歴史的基督教の教義に通ぜざれば近代哲学の研究に於ても数々蹉跌するを免れざるべし、試しにライプニッツ及レッシングを研究せよ、忽ち其の然るを知らん、第一七世紀仏国の大思想家の如きは特に天主公教の教義信条に通ぜされば解すべからざるなり。

*第一篇半分までtypo終了。疲れたのでコーヒー休みにする。