一つの教会

 日本の教会史は大まかに3つに分けられて認識されている。まず、キリシタンとしてつまり、ザビエルから始まり禁教と殉教を経て、信徒発見を一つの区切りとしての教会、もう一つは明治から大正、昭和そして戦後の教会、最後に第二バチカン公会議を経ての教会の三つである。
 日本において教会史と言われるとき念頭に置かれるのは何よりもキリシタンの歴史としてである。それは今でも長崎の教会に代表されて語られている教会である。ではもう一つの教会とはなんだろうか?そもそもカトリックを謳う教会に何故二つの教会などと言う修辞がなされるのか?普遍の教会は16世紀であろうと21世紀であろうと、それがどこにあろうと同じではないのか?
 二つの教会が教会の、信仰の豊かさとして語られるなら問題はない。それが不和や調和のなさ、疑念や不満により語られているなら問題である。何が普遍であるか問う必要がある。
 今回日本において行なわれた列福式の意義は非常に大きいと言える。殉教者そして今回列福された福者を通して信仰による一致、普遍の教会を考える必要がある。それはまず何よりも、上記の三つの教会を結びつけるところから始められなければならない。