『奉仕する教会 貧しい教会となるために』Y・コンガール

  • まえがき

 本書は、多くの友人たちの要望により、相互に補足する三論文を集めたもので、そのうち二つは既刊、一つは未発表のものである。
 第一論文は、『司教職と普遍的教会』(Unam Sanctam,39,ed.du Cerf)という論集の中で発表され、好評でかなりの反響を呼んだものである。p1

 この研究の構成において、結論の前に入れておいたものは、一九六一年の四月、ベック修道院における仏・英会議のときに発表されたテキストであり、これは他の講和とともに『権威の諸問題』(Unam Sanctam,38,1962)として出版された。そこでは、教会の位階制が、主と使徒たちから教会の法として受けた奉仕の理想を、諸世紀を通じていかに行なったかを明示する。p2

 第三の研究は、公会議の第一会期中一九六二年の十一月、〈貧しい人の教会〉という偉大なテーマに特に関係する司教団の方々―リオンの大司教ジェルリエ(Gerlier)を長とするきわめて広い国際的なグループ―にお話したものに、注をつけ資料を提示して発表するものである。pp2-3

 わたしの望みは、自分の専門の範囲内で、直接・間接を問わず、ある程度歴史によって制約された、ある行動様式もしくは状態の基礎となる理論的根拠の研究で寄与したいということであった。事実、教会の神秘神学は終始、貧しい人たちまた貧困をも愛するように強調し、教会は、大方至る所で真に貧しく、ときには窮乏の状態であるのに、富める、(一言でいえば)領主もしくは領主気どりの外観を呈しているのである。このようにして教会は自らを害し、また仕えるためにつくられた教会の目的と真に仕えようとする望みを損じる。どうしてこの悲しむべき現象が生じたのか。p3

 もちろん、数多くの司祭を不安にし悩ますこの諸問題を解決に導くためには、歴史的に、神学的に、他の種々の面を学ぶ必要がある。たいせつなのは、教会の世俗における歴史であり神学である。この点については、はなはだ示唆に富む多くの研究があるが、まだ言うべきことがたくさんある。わたしはいつか、次の問題をもっぱら究明したいと思う。すなわち、もっぱら個人としてのキリスト者に向けられていると思われる福音的要求―敵を赦せ、他の頬を向けよ、貧しさの道を選べ、所有欲と権力欲の誘惑にそなえよ、肉に対して戦えなど―を、教会自体、教会そのものとしては、どの程度自らに適用すべきか、また適用できるか。その他多くの問題を熟考する必要があるであろう。pp3-4

 この研究が首尾よく行なわれるためには、歴史を学ぶ必要があると思う。歴史は、特に、ただの博識―有益なものではあるが―以上のものとすれば、真理の偉大な教師である。重要なことは、事実をよく理解し、この世に存在するすべてのものに影響を与える史的次元を認識することである。われわれは教会の秘儀のみでなく、教会のすべてのもの(位階・秘跡など)を、あたかも超時間的なもの、またそのために非時間的なものとみる傾向がある。したがって、これらの聖なる事がらのため、新しい形、新しいスタイルをつくろうとすることは、はなはだむずかしく、ときには無謀、無駄とも思われるのである。…中略…歴史に現われた諸形体を知ることにより、われわれは本質の永続性と諸形体の変動性をさらにはっきりと理解できる。歴史を学ぶことにより、絶対的なことと相対的なことをつきとめ、相対的なことをして時代の必要性に適応させつつ、絶対的なことをより忠実に守ることができるのである。pp4-5

 全教会が福音を鏡にして自らをみつめ、現代に適応させることを重視するときにあたり、ここに集められた論文が不備、不完全なものとはいえ、第二バチカン公会議がその根本的モチーフとした福音の深い真理に、わずかながらもお役に立つことを切望するものである。p5