学としての神学 その責務についての小考察 『神学大全』序言及び第一問題を中心として
さて、今回問題とするのは『神学』そのものである。無論このような大きく入り組んだ主題をわたし一人の手でどうのこうのできるものでは勿論ないので幾つかの書籍の手助けを得ながら考察を進めたいと思う。
しかしながら、出立点はそれらの書物からではなく、わたしの問いからであり、信仰から出発する。さて、大学で曲がりなりにも学問としての神学を学んでいるのであるが、そもそも学んでいる神学なる学問とはなんであるのかと言う問いに度々直面することとなる。
それは信仰に対しての問いと述べた方が良いものもあるし、教義や宗教としてのキリスト教、カトリックに向けられたものと解して答えるべきものもあるのだが、文字通り学問としての神学とは一体どのような対象をどのような方法で研究しているのか、そもそも学問として(これ自体定義する必要があるが)成り立ちうるのかどうか…等々である。
このような問いは信仰を持たぬ人からも、また信仰を持つ人からも同様に投げかけられる問いであり、曲がりなりにも神学で学位を取ろうとしているものないしは、得た者はこの問いに対しての答えを有しているべきであろう。
- 1 何故神学を学ぶのか?
まず最初の問いである。まずは私個人に向けられた問いとして答えようと思う。つまり、あなた(つまり書き手である私)は何故神学なる学問を学ぼうと考えたのか、である。
現在学問的な意味での神学(ここではカトリックとするが)を学ぶことができるのは、上智大学、南山大学、聖トマス大学の各学部、学科及び各大神学校である。なお、他のカトリック大学においても科目として神学的知見に触れることは可能である。
なおこれは後に集中的に取り扱うべき一つの問いであるが、信仰の有無が神学を行なう際にどのような影響を及ぼすかである。ここではあくまで個人的な経験に限り話すが、信仰は神学と密接に結びついている。これは今でもそうであるし神学を学ぼうと考えた際にも強い影響を与えた。いくらか先走ってしまうが、信仰と神学はそれが後になるか先になるかの違いしかない。信仰ゆえにつまり信仰の歩の中で神学に導かれる場合と神学ゆえに信仰に導かれる場合とのどちらかである。なお、前者と後者どちらが困難な道かと問われるなら、後者であると答える。しかしながら後者の歩が全くないわけではないことを私の経験を含めてここで記すことができればと思う。
神を学ぶ
考察を進める前に神学が何であるか、少なくとも大枠を決めておきたい。これから話す神学を兎も角次のように定めておきたい。
〈神を学ぶこと〉をここでは神学としておく。無論続く議論でその神がなんなのか、学ぶとはどういうことなのか、そもそも大学で教授、研究される学つまり学問とどのような点で異なるのか、同じなのか…等々が明らかにされていく。必要なら暫定的な上記の定義はよりよいものの為に捨てられうるものである。
さてどのような学問においても学ぶ学生、生徒がおり、教える師、教師がいる。これは無論、神学においても変わることがない。科学者が何よりも自然を第一の教師とするように、神学は神自身が第一の教師である。神学の歴史は非常に長いものであり、教父の時代以来多数の書物が記されてきたが、最も古い神学のテキスト、教科書とでも呼ぶべきものが何であるかと問われるならば、聖書それ自体を答えとして差し出すことができる。
それは神自身が人に示した講義録と呼んでよいものである。モーセを初め数々の預言者に神は自身でまず以って神自身を示し、また神自身が預言者を教えた。
新約において神は自身の一人子であるイエス自身を遣わし、文字通り教師として教えられた。
さて、このような実にぶっ飛んだ、私としてもなるだけ自然理性つまり哲学からのアプローチをしたいのですが、今回はあくまで神学そのものを問題とするので啓示より出発することとしました。
ここで『啓示』と言う一つの神学的な用語が出てきましたが、上記で何が示したかったかと言うと神学に於ける第一の教師は神自身だと言うことです。如何なる碩学、教会博士であろうとも神によって教え、導かれなければ彼等は一行として、一文字としてその書籍を記すことはできませんし、神学を行うこともできなかったということです。
啓示とはつまり神自身が(主語)神自身を(客体)人間に(対象)明らかにする(行為)ことである。では、イエスの場合どうであろうか、イエスがイエス自身、つまり十字架上で苦しみを受け黄泉に降り、三日目に復活する等々、自身について弟子たちに教える。この構造は旧約であれ、新約であれ変わることがない。まず以って神自身が自らを明らかにするのが啓示である。啓示には更に〈オーダー・教え〉の側面が加わる。つまり、旧約において神がモーセに十戒を与えたようにイエスも弟子たちに〜するようにと教えている。さて最後のそして最も重要な点は神と人との契約である。それはつまり神によって与えられる救済と恵みに関してである。
ここで少し整理したいが、啓示においては、神自身と神の教え、神との契約の三つの側面がある。つまり、神学において扱う対象も大きく三つに分けることができるということである。
神学者としての神
さて、以上のまとめと復習、整理である。神学を〈神を知ること〉とした場合、知られる対象である神を最もよく知るのは無論神自身である。
自ら神は自らを人間に示し、教え、導いた。そして何よりも神はすべての人に神自身を示し、教え、招くために御子であるイエス・キリストを世に使わされ、弟子たちを教えた。さて、イエスにより教え導かれた弟子たちは使徒として彼らがされたように福音を告げ知らせ、神を証し、神の元に招いた。使徒によりまた使徒に招かれた人たちにより立てられた教会は神を示し、教え、導いた。ここからようやく学問としての神学が姿を見せ始める。
学問としての神学を哲学的に考察していく前にまず示し、確認しておきたかったのは神学が神自身により始められたこと、そしてイエス自身により弟子達に与えられ、伝えられ、教会を通して今なお伝えられる『信仰の遺産』のうえに築かれたものだということ、何よりも神自身がそうであり、イエスが弟子達にしたのと同様神学は神を示し、教え、神に招くためのものである。
**追記**
いまだ書きかけ。忙しいがクリスマスまでには何とか書きおえたいと思う。寝る。