二つの要理教育 インターネットを媒体としての伝達について

 これはid:karposさん含め既に信じていて且つ何らかの形で信じているものを示し、教え、導こうとする人に伝えて共有していくことなので些か内輪向けの度合いがきつく、ここで書くのに適さないかもしれませんが、幾点かまとめておきたいのでエントリにしておきたいと思います。どうも、私を直接に知る人たちも私のブログを読んでいるようなのでその人たちに対して書く必要もある程度出てきたのではないかとも思うので。
 
 さて、そもそも今年のクリスマスで教会に結ばれるようになってようやく3年目である。幼児洗礼と成人洗礼については以前(10/23:http://d.hatena.ne.jp/CanDy/20081023/1224775493)考察して以来ほったらかしですが、ここでの問題意識を引き継ぎつつ考察したいと思います。

 こうしてここで稚拙ながらも論考をする必要を感じるのは当然私の信仰ゆえである。そうでなければこんな七面倒なこと誰がやろうか。信仰に招かれ、教会に結ばれたのは神が招いたからであり、私が神に委ねたからである。神学を学ぼうと思ったのは教皇が述べるところが正しいと感じたし、それらについて知らない人に理解を求め、誤解を解く必要があると感じたからである。
 兎も角話を始めるにはクリスマス同様どこかある一点から始めなければならないので、『私が何故、神学を学ぼうと思ったか、またどうゆうつもりで神学を学んでいくつもりか』から始めたいと思う。
 私が神学に初めて触れたのは以前にも引用したレーゲンスブルク大学での講演(http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message143.htm)である。この問題意識をワンフレーズで表わすなら『理性と信仰の一致』である。私はこの論考が非常に明瞭で理性的であるのに驚いたし、理性により対話を進めて行く姿勢に感銘を覚えた。それと対比する形でこの論考の与えた一種のヒステリーと無理解、悪意に非常にやるせない思いを抱いたし、この誤解を説く必要を感じた。そのためにはこの論考で示されたように信仰と理性を一致、調和させるために神学を学ぶ必要があると考えたので、神学部に入学を志望した。ただそれだけのことである。
 その時点での私の学問的な興味関心は国際政治、国際法であり、国際的な秩序の構築やその基礎となるものは何なのかが関心であった。具体的には宗教的寛容や対話であり、学問的なカテゴリーとしては法哲学、政治哲学、公共哲学や応用倫理学が扱う領域である。これは今でも何ら変わることがない。しかしながらこのような領域を扱うのであれば当然教皇の講演で問題とされる事柄やその講演が巻き起こした議論について論じなければならないし、自らの問題として何より考える必要があると考えた。
 信仰に、より正確には教会に導かれる前より、ジョン・ロックの書籍を読むなどして、政治学や法学と哲学、神学もっと言うならば信仰が密接に関係しているのは理解していたし、このような視点については学問を進めていく上で捨ててはならないものであると考えてはいたが、それはあくまで学ぶ予定の学問と自身の信仰の折衝と言う消極的なものを想定していた。しかし、上記の講演で実践理性(道徳)はより上位の形而上学(神学)で基礎づけられねば成り立たないと考えるに至ったし、まずその点についてきちんと学ぶべきであると当然考えた。
 故に私は神学部を選んだ。何ゆえ哲学にしなかったのかと問われるが、上記の思考の流れからすると当然考えることなどできるはずがない。大学で学問として独立した位置を与えられた哲学、つまりそれは信仰から離れた哲学など少なくとも私にとっては学ぶ価値のないガラクタである。そのようなつまらないことに時間を浪費するのはもったいないと考えた。私がその時点で学びたかったものはスコラ学である。つまり、教皇が述べるような問題意識を持ち、今まで積み上げられた知的な遺産のうえに学問的な活動を行なっていると“思った”からである。
 さてでは神学を学ぶにあたり上智大学を選んだかである。無論、神学を学べるのが他の大学にあるのは知ってはいた(プロテスタント含め)。何故選んだかは恥ずかしげもなく、かつ遠慮なく正直に述べるが、イエズス会に信頼して選んだ。イエズス会だから選んだとより積極的に述べても言いすぎにはならない。
 何故なら中高の6年間でイエズス会士の教員に大変お世話になったし、私の持っている現在の知的な興味関心の多くが彼らの刺戟や与えてくれたものによるからだ。私はであるから次のように考えていた。中高で受けた知的な刺戟、それは大学の学問に通ずるものを中高同様に今度は大学の学問として教授してくれるであろうし、まして元々神学者である教皇の思考があのように明瞭であるのだから神学者というのは皆あのように明瞭であると期待した。このような期待をした私が咎められるであろうか。無論今では笑い話である。正直な話あまり笑えないが、ジョークとして「教皇のあずかり知らぬ事にイエズス会士の頭の中身、考え」があるそうなので、大学のイエズス会士とはそういうものなのであろうと思うことにしている。
 なお、私のブログの内容があまりに辛らつなので私の個人的な評価を落としてしてしまっているのは重々承知している。謙遜と柔和の徳が著しく欠如している。無論その点は昨年から覚悟のうえである。
 
 私の不機嫌さと不満とには上記のような個人的なものが当然含まれるし、含まれないと述べたら嘘となるので正直に記しておく。それ以上に私を不満足にするのは神学が学問としてもまた現代の社会から、特に日本の社会から遊離し、接点がうまく持てていないように見えるし、そもそも神学者自身が接点を得ようと努力しているように全く見えない。限られた読者に対して、限られた言葉で、限られた対象を限られた方法で、内輪で論じている。
 どうもイヤなのだ、興味があるかたは教会にしろ、公開講座にしろ、書籍にしろいらしてください、読んでくださいという態度が。
 日本の社会を見て答えようとしているなら、はっきりと述べるのだけど、答えかたがまずすぎる。この期に及んで禅?仏教?私は聞きたいのだけど信心を持って仏門にいる人や禅を組んでる人が日本人で幾らいるの?そもそもお坊さんでさえどうやって教えを広げようかと考えてる状況だというのに、何を参考にするんだ。もし考察するなら、キリスト教同様他の宗教が抱える困難は何でそれに対してどのように答えられるかの方でしょうが。この期に及んで仏教の〜という思想や概念とキリスト教の類似性であるとかキリスト教への導入であるとか、仮に仏教の持つものが良いものであるなら、仏教が日本において非常に広範に影響を持ってるはずでしょ。悪いのだけど、仏教がそれ程影響を持っているようには思えないし、お坊さん自身もそれに対して問題意識を持って変えていこうと動いているように思うけど。協力したり共有すべきはむしろそこだと思うけど。ようするにあなたがたの研究テーマや意識、方法が古すぎると言いたいの。何時まで80年代、70年代的な意識で論文書いて研究してるんだか。ほんと大概にして頂きたい。
 でよりにもよってスピリチュアルだなんだと乗っかるし・・・霊性はとても重要ですが、重要であるが故にまずやるべきは蔓延するスピリチュアリティーを批判することでは?安易に心の癒しだなんだと走りすぎ。あとは物語性だなんだと・・・哲学真面目にやってたら恥ずかしくて言えないような議論や何やらが蔓延しすぎです。
 ポスト・モダンと形容される価値相対主義から神学は逃れていると思ったし、現に私が神学部に入るきっかけになった教皇の講演は価値相対主義、信仰の心理主義化等々を明白に批判してる。
 私は心理学にしろ哲学にしろ、文学、史学、自然科学、十九世紀以降に成立した学問をあらためて問い直して、再度構築しうる学問は神学しかないと考えているし、そういう知的な努力を神学者はしてると思ったし、するべきだとも思うのだけど、その点が欠けてるから私は非常に不機嫌なのです。
 子供っぽいだとか、無礼だとか、もう何言われようと思われようとそれはどうでもよい。ただ、やらないといけないと述べたことはあまりに大きいし、当然私一人如きでどうにかなるとは思っていない。それは神学部入る前からそのように考えてる。だからその点について既に学んでまして研究してる先生方から教えてもらえるし、上記の問題の解決の手伝いをしてもらえると思ったし、無論私が学ぶ過程でその手伝いができるかもしれないし、したいとも思ったし、これは今でも思ってる。
 私のイライラと不機嫌と不満の本当の原因は上記の点についてうちの先生方がどう考えてきてどのようなつもりで今後の神学をしていくのかがよくわからないし、知ろうと試みて紀要の論文等も読んだし、昨年は真面目に講義にもでたけど、知れば知るほどやるつもりがあるのか分からなくなってくる。ここで私にあきらめの良さと従順さが備わっているなら私の問題意識が間違っているのだろうとなるのだけど、悪いのだけど私は諦めが悪い人間だし、少なくとも私の問題意識は必ずしも私だけの問題意識でもないことが同じように論文読んだり書籍を読んでいたら分かるし、何より私が現時的に見て、触れて、感じる経験からしても答えがどうであるかではなく問題だと感じる点については妥当であると信じる。
 なお、こういうようなエントリを書いたのは私自身もいくらか反省する点があったからです。きちんと問題がどのような点にあるのか私自身も伝えていこうと、これは大学で、信仰を持たない人ではなくて、持つ人に対してしようとしてこなかった点についてです。
 私の中に、不和やいさかいがあったら伝わるものも伝わらないし、いまだ知らない人に伝えようとするものが既に知っている人と違うなどということはないのであるから話して分からない、分かり合えないなどと言うこともないと思う。
 でも兎も角、神学にしろなんにしろ『信仰と理性』と言う視点が不足しすぎだと思う、今の教会には。それを改めていくのはまず神学を学び、研究する者の役目であると思う。
 あと、私は来年以降の神学部の再編については歓迎してる。私がここで述べるようなことではないけれど、多くの学生(先輩、後輩、同輩)が人数が増えることに対して不安を述べていたけど(なお、私が聞く限りの不安は人数が増えることと、未信者の人の割合が今以上に増えること)人数が増えるということはそれだけ視座が増えることであるし、信じてない人が増えることが神学に悪影響を及ぼすかと言うとそんな事はないと考える。信仰と懐疑は相補完して神学を豊かにするものだなんて古典的なそれこそ教父であれ神学者の書いたものを読めば一目瞭然であるし、何よりもある特定の時、場所、文化の中でイエス使徒が福音を述べて、教えたように神学もある特定の時、場所、文化の中でおこなうものだし、それはイエスがそうであったように私たちも述べる際はその時代的、文化的、また私たち自身の制約を引受けたうえで語らなければならないし、語るためには考えなければならない。
 この前のエントリで書いたように私は神学を、示し、教え、招くためのものだと考えてる。できるか、できないかは兎も角として、やろうとしてるのかだけははっきりと示して欲しい。不満と言うよりも不安で仕方がない。
 うー結局愚痴になった。前のエントリの続きは引き続き後ほど書きます。
 追記
全然タイトルと関係なくなってるけどタイトルに関しては後で書く・・・後で書くが多いなほんとorz