霊魂について―アリストテレス『霊魂論』を中心として―

 さて、天使的博士(トマス・アクィナス)に言及するということはアリストテレスに言及するのとほぼ同義であると解してかまわないでしょう。無論、トマスの思索とアリストテレスの思索とは全く分けてそれぞれ考察されるべき代物ではありますが、そのどちらにしろ多くの示唆に富む代物です。
 何故、ここで筆を取るかと言うと、どうも天使がどうのこうのと一部が騒がしいからです。残念ですが天使論は先に記したように相当後になります。ですが必要だとも思いますので幾つか言及をしておこうと思います。
 まず天使に関してですが、天使論の問題は大きく二つの側面に分けて考えることができます。一つは存在論的な側面、もう一つは認識論的な側面つまり知性論として考えることができます。ややこしいことになるので深入りはしませんし、わたしの技量では深入りすることすらできませんが、残念ながら・・・まず天使論を天使がどのような存在であるか、いるのかいないのかetcを話す前に認識論的な側面を先にしなければなりません。トマスも無論知性論、つまり神の自己啓示との関係から論を進めています。ですから『神学大全』を読む際に(これはどのような書物でもそうですが)注意しなければならないのはトマスの書き残したものが秩序だっており、整理されてると言って一部の項や議論を抜き出してきてそれだけを論ずるのは誤りや誤解の元になってしまいます。長いですが、じっくりと初めの部分から行ないましょう。
 さて、『神学大全』そのものや聖トマスについては後ほど触れるとして、「天使」やそして「悪魔」をどのように考えるかと言うことです。天使や悪魔は中世から物語や絵画のモチーフとして度々選ばれ描かれてきました。代表的なものとしてはダンテの『神曲』やゲーテの『ファウスト』などがあるでしょう。ここでは人の手による作品はどうでも良いものであって、問題とされなければならないのは聖書でどのようにそれらが描かれているかでしょう。
 以前神学は神の自己啓示、神自身の教授から始まるものであり、またそれを模倣する行いだと述べました。この原則は少なくとも信仰に関係する事項を扱う際の基本方針ともなります。まず第一に考えるべきは神自身がどのような見解を示しているのか、その見解はイエスを通して示され、それ以前に数々の預言者、そして後には使徒によって示されたものであり、次いで教会はどのような見解を示しているのか、公会議や回勅で示される、更に加えて教父たちはどのような見解を示すのか、そして最後に神学者たちがいかに思弁するかがそれぞれ順をおいて参照されるべきです。
 これは近代以降につまり啓蒙され教育された市民としての信徒が増える中では致し方ないことですし、この前提がなければ信徒使徒職なども生れようはずもありませんが、信徒の信仰理解と司祭の信仰理解が不幸なことに一致しない場合が起こりえます。現に起こってもいるわけですが、まず先に記さなければならない点が、現代であろうと中世においてであろうと信仰はまずもって個々人と神との交わりであり、その交わりゆえに信じるものは教会における集まりに招かれそこで司祭と信徒の信徒同士の交わりが生れるということです。つまり、信仰は個々人のものであると同時に教会に一致するものでもあるということです。

  • 説教は必ずしも神学的ではない

 非常に重要な前提です。故に項を改めました。毎日のないしは毎週の人によっては年一回のこともあるかもしれませんが、ミサの最中の説教は典礼の一部であり、その中でまず与るものです。つまり、頭で学問的に思弁するというよりも恵みとして受けるものだということです。つまり、神学者が学者として学会で発表、発題することは聖務者でなくても当然可能ですが、説教は恵みであるが故に叙階等の特別のこれまた神からの恵みが必要なのです。説教は魂の救済に直接係わるものですが、神学者の学問的な見解は“直接”には魂の救済には関係しません。無論前回のエントリーで述べたように、神学は神を対象とし、それに倣うが故に魂の救済に全く関係ないと述べることはできないのですが、あくまで典礼の一要素としての説教の持つ要素とは大きく異なるものです。
 また説教の役割はその日の福音の内容を集っている会衆にその意図するところ内容がきちんと伝わり理解されるために司祭からなされる助言、説明がその本質です。故に典礼で読まれる箇所が同じであっても司祭の向き合う会衆によりその説明の“仕方”はそれぞれ当然異なってきます。時と場合、集まっている人の顔を見ながら毎週(毎日かもしれない)説教を考えるのだから司祭もさぞ大変でしょう。むしろ説教はこうでなくてはならないと決まっていればこのような気苦労はそもそも起こらないはずです。ですから、その場でミサに与っていない人が説教に対してなんらかの考察をする際には注意が必要だということです。
 つまり、説教は書かれ、推敲され訂正される文字言語の側面ではなく、手振り、身振りを含んだ音声言語の側面が強いということです。この点が今回述べておかなければならないことの一つです。
 無論このことが、説教であればどのようなものでも無批判に受け入れるべきだということにはなりませんが、司牧的な配慮が大きく働くが故に神学的に(学問的にと述べるべきかもしれませんが)見ると誤解を招きかねないと批判を受けるような部分があるのもやむ終えないと述べたいのです。特定な対象や傾向、形質を持つ相手に語る際、また時と場合によりある事柄を説明するのに適当な方法がある場合には不適当だということはままあることです。無論どのような相手にも適応できる説明を講ずるのも当然なされなければなりませんが、この役目はむしろ司牧の現場に立つ司祭の役割と言うよりも研究を専らの生業とする神学者の役割でしょう。

  • 知に足のついた話とそうでない話

さてここからが本論。若干愚痴ると、ブログやらネットで日々の説教を掲載する意図はわかるけど意味や意義については正直疑問に思う。上記で記したようにあくまで典礼の一部、しかもどちらかと言うと添え物をわざわざ時間割いてしかも批判や誤読のリスク(音声言語なので異様に高いリスク)を背負ってまで掲載する必要ってあるの。むしろ神学とまでは言わないけどそちらの側面から色々な理解を促す文章を掲載したほうが福音宣教的にはよろしいと思うのだけど。

 本題に入る前に少しコーヒーブレーク