前々回からの続き 相変わらず脈略があるようでない話

 さて、こうしてブログを記してからはや三年と少しをすぎようとしているのですが、以前にも少し記しましたがブログを始めたのは私が洗礼を受けたクリスマスからです。無論当初は神学を学ぶだなんて考えてもいませんでしたし、上智大学?何それ?な状況でした。ブログの内容も当時の受験勉強の忘備録でしたし、その後も基本愚痴のためのブログでした。今もその側面が大きいのですが来年以降は個人的な愚痴などに時間を割くのは勿体無いのでもう少し神学的な知見の提供やら(私のできる範囲ですが)信仰についての記事を主たるものにしていきたいと考えています。
 それは兎も角としてですね、今年の終わりごろから知っている方が私のブログを読んでいるという事態になってしまいいやでもそれを考慮しながら書かねばならなくなってしまいなかなか困難なのですが…なお移転する前の昨年のブログをサークルの先輩に偶然読まれたのが初めてと言えば初めてなので別に読まれるのはイヤではありませんし、万人の読む恐れのあるwebで書いているのだから始めから想定はしていたことですが。
 それはさて置き何故このようにグダグダと学問もどきの事柄を延々書いているかなのですが、好きでやっているという面と現状認識からの行動と言う側面の二つがあります。
 まず第一に強調しておくべきは信仰者としての側面です。それが幼児期のものであろうと成人としてでのものであろうと臨終時のものであろうとまずもって洗礼は洗礼ですし、信仰は信仰です。それは良いとしてどの時期にカトリックの、もっと言うならキリスト教徒と言うこの国においての弩マイナーな宗教に属することになった人間は多かれ少なかれそれぞれ個人個人が個人個人の信仰ゆえに直面する問題があります。直面する問題は個々人で当然異なるものではありますが、現在属している社会や文化、時代から来る困難には一般化可能、抽象的に思弁できる側面が必ず存在しています。
 神学の一つの役割としてこのような文化的、社会的、時代的制約を進んで引き受け、問題とすることがあります。多くの神学者や哲学者が度々この点指摘しますし、これはどのような学問領域でもあることですが、ある学者をして時代的な制約が云々、文化的な制約が云々、社会的な制約が云々と述べますが、それ故に古典的であるとか文化的、社会的な背景の異なる中で行なわれた思索の価値が失われるのでしょうか?
 まずもってそれらの思索は述べられているようにそれぞれの一個人がそれぞれが学んできてまた対象とする文化や社会や時代の制約を負ったものとして理解されなければなりません。ですが、それ故に共通な部分、普遍な部分を持ち得るとも言えます。
 私がどうも不愉快なのは、時代的な制約その他を他の思索に対して指摘するのと同時に自らの思索もそれに制約されるが故に普遍的足りえないと知的な誠実さに欠けた態度をとることです。はっきり述べるのですがこのような態度をとる人物は二重の誤りを犯しています。まず一つに、その時代や文化、社会に没入しそれを引受けて思索するが故に見えてくる普遍なものを他の思索から取り逃すこと、次いでそのような知的な軽薄さ故に(彼等はその態度こそが中立で知的に誠実だと思っているようですが)自分の立っている社会や文化、時代について一つも知らないし、そこで問題になっている普遍的な問いも把握できずにいる。
 私にはどうにもこの知的な不徹底さが神学者の中にすら見受けられるのではないかと懸念していますし、そのように感じるが故に不満を持っています。