無教会と言う問題 二つのJについて

 さて、現在日本の教会、しいては神学においての大問題は現代化と土着化である。これは世俗化と明白に対峙、区別されて思考されるべきものである。残念ながら多くの試みが現代化(アジョルナメント)とも土着化(インカルチュレーション)ともならず世俗化と形容すべきものとなってしまっている。
 この二点は日本のみの問題なのであろうか?多くの神学者はこの問題特に後者の土着化に関して非ヨーロッパ圏の教会、神学に課された重要問題であると考えている。この点についてヨーロッパ圏、つまり西洋の文化圏にある教会は一切関係ないかのように振る舞っている。
 私はこのような態度にこそ、インカルチュレーション、土着化の失敗の原因が含まれているように感ずる。土着化を単に反西洋、東洋と西洋の文化対立を根底にすえて思考するのは誤った考えであるといえる。神学者の多くが信仰の変質であると批判する西洋の要素は世俗主義として排され批判されるべきものであり、それ故に西洋の文化を否定し、逆に東洋を称揚する立場を取るのはあまりに安直である。無論、日本において顕著であるが信仰を受容するのではなく、西洋の文化の一部、アクセサリーとしてキリスト教を受容してきた側面は明瞭に批判されねばならないし、それを単に西洋への憧憬を土着化とは私も考えない。
 そもそもの問題としてインカルチュレーションが文化の受肉(非常に曖昧で定義が必要)であるとするならば、西洋は西洋の文化においての受肉が当然必要とされるであろう。故にインカルチュレーションは非西洋圏に特別な問題ではなく、普遍的に考察されるべき問題である。
 何故にインカルチュレーションと言う視点が普遍性を持つものであるか強調せねばならないのか?何故ならもし仮に文化受肉を対象にして行なわれる思弁が非西洋の文化圏でのみ通用するものであるとするならばそれは神学が普遍性を放棄するに等しいからである。無論教会法その他の地域規定などがあることからも現実的で実践的側面においてつまり、文化受肉を具体的な行動、活動として行う際にはそれぞれの地域的な特殊性が見られるのは当然であるが、神学が仮に啓示による光と自然理性の光の双方をしての思弁であるとするならこれらの思考は地域性に拘束されるものではない。それぞれ考察する具体的、個別的な問題から普遍的な問題を引き上げ思弁するのが神学の第一の役割である。もし仮に個別性に留まるなら神学と文化人類学の何が異なるのだ?諸君らは神学者であるのだからその方法と対象、他の学問との違いを明確に認識すべきだ。これは何も文化人類学などの個別学問の知見を不問に伏せと述べているのではない。それらの個別的な知見を普遍のものとして問うのが神学の持ち味であると述べたいのだ。
 塩が塩気を失ったら何で味付けがされようか?
 アジアの神学に対して私が批判的な理由は本来普遍を対象とし、また普遍的である教会の神学が地理的、文化的な制限を受けるなどと言う戯言を主張してはばからないので批判している。

  • 神学はどのような個別、具体的な対象、問いより出立しようとも啓示と自然理性の光に照らされる限り普遍である。また神学の出立とその帰結は必ず普遍の教会に結ばれる。
  • 神学が仮に地域的特性をその要素として持つとしても我々は普遍な教会に結ばれるが故に他の地域の教会、神学と切り離され孤立することはない。

一部の神学が地域、文化の特性を強調するあまり普遍性が損なわれ、地域ごとに孤立するのではないかと私は恐れる。ヨーロッパの神学、東洋の神学、中世の神学、現代の神学と言うのは教授の必要などから用いられる区分にすぎず神学は普遍を対象とし、普遍に前提を置く以上、普遍的なものである。