対象=前提=方法=結論 文字通りの意味で循環論である神学について

以前に行なった「学としての神学 その責務についての小考察」の続きにあたります。ですが、読み返すと誤字はあるし論にまとまりがないので前回のエントリーのリライト+αとなります。

  • 全体の構成

4の内容(+2:序論 結論)―3の側面―3人の読者

  • 序論
  • 1
    • 側面A.1/.2/.3 (一人目の読者/二人目の読者/三人目の読者)
    • 側面B.1/.2/.3
    • 側面C.1/.2/.3
  • 2
    • 側面A.1/.2/.3
    • 側面B.1/.2/.3
    • 側面C.1/.2/.3
  • 3
    • 側面A.1/.2/.3 
    • 側面B.1/.2/.3
    • 側面C.1/.2/.3
  • 4
    • 側面A.1/.2/.3
    • 側面B.1/.2/.3
    • 側面C.1/.2/.3
  • 結論

諸要素

本論部は4×3×3=36 
側面A=父である神
側面B=子であるイエス
側面C=聖霊
序論、結論は三位であり一である神が本論部とどのように関係するかの導入、及び帰結にあたる。

読者について

読者1=教導職につくであろう人々(聖務者、教役者志望)つまるところ、神学部での教科書
読者2=兄弟姉妹の皆様(信徒)つまるところ、信徒使徒職にあたっての教導
読者3=その他の人々(未信者)つまるところ、信仰に招くための教導
神学には上記の三名の読者が想定されうる。
読者1については私には教導の能力もなければ権威もない。また、義務も同様にない。本件については規定に即し能力を有するものが教導する。(STLがそれにあたる)故に私は読者1については想定する必要がない。
本音を話すと愛想が尽きかけている。諸君ら自身で何とかするべきだ。私の仕事ではない。
読者2については教導するというよりもあくまで一信徒という立ち位置からの思索がいくらかでも信仰を同じくする他の人々の益となることを願ってやまないし、この点の配慮を忘れての思索をおこなわないよう注意深く進めて行きたいと思う。
読者3について、以前私はこの立場にあったし、私自身導かれて今の有様になったことから考えるに、真摯な疑問や素朴な疑問ほど神学にとり重要でまた理にかなった重要な問いを含むことをまず記しておく必要がある。信仰を得るか否かは、あなたがた自身と神のみぞ知ることであるから私がとやかく割り込んで述べるものではない。であるが、興味や関心はその特性上問いを含むものであり、それに対して私の知りうる範囲で真摯に答えて行きたいと思う。