弁明の必要

 以前(http://d.hatena.ne.jp/CanDy/20080714/1215962995)で「混同と困惑と異端について」と称してスピリチュアリティーについての考察の必要を述べ、その点について私自身考察すると述べた。以前のエントリーでも言及した『ニューエイジについてのキリスト教的考察』をあらためて読み直している。
 私が必要としているのは以前も今も護教論であり、神学においては基礎神学(上智大学では神学部の院に講義がある/あくまで個人的な見解であるがこれは本来学部の一年次で講ずるはずのものだ。要は本学の学部は学部に値しないカルチャースクールにすぎないということである)として講ぜられるものである。
なおこのような追記は必要ないかと思うが・・・“基礎”と冠しているから学部の一年で行なえと単純に述べているのではない。どのような学問であれ、それが神学であっても、それがどのような学であるか、つまりどのような対象を持ち、前提を持ち、方法を持つのか、学の及ぶ範囲と他の諸学問との位置関係、学に特有な特徴と歴史的な位置づけ(通常学説史となる)が必要であり、その役割を負っているのが基礎神学だと述べるにすぎない。この点を踏まえずにはスコラ学(神学の補助学問としての哲学)の必要も理解されないし、三位一体論その他諸々の個別の論に展開するのも不可能である。またこの点を疎かにすることにより、信仰や啓示、また啓示に導かれ信仰と伴にある理性すら揺らぐのである。現代においての懐疑の大半は復活や受肉と言った個別の論ではなく信じるとは如何なることか、教会に集うとはそもそもどういうことなのか、そもそも理性と信仰はどのような関係にあるのか、つまりは学としての神学がいかなるものであるかと言う問いに対しての答えを求めてのものである。神学者は個別の論や分野に進む前にこの一つの問いに対して明瞭な回答を用意しなければならない。私が必要と思うことそして現状の神学部に欠ける唯一のものと考えるのがこの点に関してである。神学者の諸々の立場や議論は二義的な問題である。彼らがきちんと啓示とはなんであり、信仰は何であり、理性はなんであり、そして神学がなんであるかと言う答えを導き、その上に、またそれらの解から諸々の論を導いているなら何ら問題ない。