へ理屈派の弁明
自然法認識における神論の必要性について 〜John Locke's Natural Law に沿って〜
小論
1-1 神論の概要(造物主及び被造物としての人間の位置づけ)
1-2 恩寵としての啓示及び自然理性(諸々の認識の基礎)
1-3 道徳律ないし自然法の認識
はじめに
以下における論考はEssays On The Law Of Nature: The Latin Text with a Translation, Introduction and Notes, Together with Transcripts of Locke's Shorthand in his Journal for 1676に対してのコメンタリー(註解)の形式で行う。端的に述べてまとまった読書ノートの以上でも以下でもない。翻訳については浜林正夫訳(『世界大思想全集 ホッブス・ロック・ハリトン』1962年、河出書房新社)を参照した。
ロックは本書で自然法について8つの問いを立てそれに順次説明を加える形で議論を展開する。以下八つの問いに従いながら議論を進める。
問一:道徳律、あるいは自然法はわれわれに与えられているか。与えられている。
- ロック『自然法論』において提示される神認識に関して
本題冒頭においてロックは神の存在証明の議論を行う。ただ此処においてロックは神の存在証明を議論するというよりも以下の自然法議論の前提として神の存在証明(以下存在証明含め神の特質等の議論を含んだ『神論』とまとめることとする) を提示すると述べた方が適当である。
多くの読者にとって(この場合、日本語を解する読者)神の存在証明をはじめとして『神論』に属す事柄は違和感と取っ掛かりのなさを感じさせると思う。多くの人にとって道徳律、つまり実践理性とは人間に関わる事柄であり、神論ではなく人間論から扱われるべき課題であると考えられるであろう。しかしながら、此処で扱うロックにしてもそうであるし、中世期の神学者であるトマス・アクィナスにおいても人間論の前提としてまず神論の議論がなされている。このたびの議論においてトマス・アクィナスの『神学大全』を扱うことは意図していないが、『神学大全』中の自然法論、ないしトマスの倫理神学を扱う場合にも第二部の各論のみから議論するのではなく第一部の神論の議論との連関において扱わなければならないと筆者は考える。
以下、具体的にロックの議論を見ていくこととする。(以下引用断りのない限り浜林訳)
神はいたるところでみずからの存在をわれわれにしめし、過去においてしばしば奇蹟をあらわしたように現在においても自然の規則正しい運行のうちに、いわばその存在を人々の眼におしつけてくるのである・・・p139
ロックによれば、この東の果ての島国においても神はわれわれに神自身を示しているそうであるが、キリスト教徒の考える神というのはどうにも押し付けがましいらしい。皮肉はともかく、ロックは“過去”における、これは当然聖書においての「奇蹟」この奇蹟は聖書の中で救い主として記されるイエス・キリストが行ったもの、が神の示す神自身の存在であり、また現在において神は自然の規則の正しい“運行のうち”に自身の『存在』を示すとしている。
ロックの述べる『奇蹟』つまり聖書に見られる神の業による神自身の提示を“啓示”によるものとし、自然の規則の運行のうちに見られる神の働きによる提示を“自然の光”によるものとする。此処で問題とされるのは自然の光により捕捉できる神(所謂“哲学者の神”)と聖書に示されている神(所謂“アブラハムの神”)とがどのような関係におかれているのかである。
聖書及び自然(被造物)の働きの内に神の存在は明示されている以上、ロックは
どんな人であろうと、人生の合理的な説明の必要を認め、美徳あるいは悪徳とよぶべきものの存在を認める人であれば、神の存在を否定する人は一人もないだろうと思う p139
と述べる。
なおロックは晩年の『キリスト教の合理性・奇跡論』(服部知文訳、岬書房、1970)において、啓示の問題を扱っている。当然ながら自然理性による神認識に関しては『人間知性論』やロックの自然学、自然科学観を含めて理解することが望ましいが、ここではあくまでロックの最初期の著述である『自然法論』のテキストに沿った形で議論を進めたいと思う。
したがって、以上のことが認められるなら、神が世界を支配しているということは疑いえない。天体が常に回転し、地球が固定し、星が輝くのも神の命によるものであり、荒海にかぎりをもうけ、あらゆる種類の植物に発芽と成長の様式と期間をさだめたのも神であり、すべての生物がそれぞれに生誕と生命の法則をもっているのも神の意志にしたがうものであって、この全宇宙の構成のうちに、それぞれの本質にかなった適切な一定の運動法則をもたないほど不安定で、また不確実なものは、一つもないのである。 p139
ロックはこの時点においては天動説を説明として採用しているが、後に地動説の立場に移った。『人間知性論』第2巻14章21節参照のこと。尚ロックが思索を行った時代はボイルやニュートンが活躍した時代でもあり、自然科学(特にベーコンに始まる経験科学)の発展が他の領域、この場合、神学や哲学に影響を与え始めた時代でもある。このような自然科学の発展により、自然法論は科学実証主義等により近代に批判を受け一時はその自明性を疑われることとなる。現在においても自然法論の認識また存在は問題として取り上げられているが、この問題を解決するためにはロックが自明としている神の存在、また人間理性による神の認識の問題をまず扱う必要性がある。
ロックはこのように所与の世界が神により支配されていることを前提として次のように述べる。
したがって人間だけが、計画も規則も生活のさだめもなしに、どんな法則の適用もうけずにこの世にうまれでたのかどうかは探求にあたいすることであるように思われる。至善にして至高なる神について考え、いついかなるところにおいても人類全体が変わることなく意見が一致していることを思い、あるいは自分自身のことやみずからの良心について反省してみさえすれば、何人も、人間に法則が与えられていないとは信じないであろう p139
メモ:カトリック教会のカテキズムより(後で脚注その他へ移動)
第1章 人間は神を「知ることができる」要約部(44〜49)より
46 被造物の語りかけや良心の声を聞くとき、人間は万物の原因、目的である神の存在の確証をつかむことができます。
47 教会は、唯一の、真の、わたしたちの造り主であり、主である神を、人間理性の自然の光により、そのみわざを通して、確実に知ることができると教えます。
3 神認識に関する教会の教え
36 「わたしたちの母である聖なる教会は、人間理性の自然の光によって、また被造物を通して、万物の起源と目的である神を確実に知ることができると考え、教えています」。この能力なしに、人間は神の啓示を受け入れることはできません。人間がこの能力を持っているのは、「神にかたどって」(創世記1・27)造られたからです。
37 それにもかかわらず、人間は自分が置かれている歴史的状況の中で、ただ理性の光だけで神を知ることに多くの困難を覚えます。
38 ですから人間は、ただ人間理性を超えることがらに関してだけではなく、「それ自体、理性によって把握できる宗教的、道徳的諸真理に関しても、神の啓示に照らされる必要があるのです。それは、これらの真理が人類の現状の中で、すべての人に、容易に、揺るぎない確実さをもって、誤りを含まず、知られうるためです」。
4 どのように神について語るべきか
39 教会は神を知る人間理性の能力を主張することにより、教会がすべての人に、またすべての人と、神について語りうる自信を表明しています。この確信が、他の宗教、哲学と科学、また無信仰者と無神論者との対話の出発点なのです。