続きと小休止

 一段落に時間をかけ過ぎた気もしますが、第一段落は以下のようになります。続く議論で明らかにされますが、ロックは自然法を自然の光により認識可能な神の意志であると解しています。この理解の枠組みは後の『市民政府論(統治論)』においても原則として変化しているとは思えません。ロックの自然法論は“近代”自然法と呼ばれることが多いのですが、自然法論の前提としての神の存在、認識の前提化に関しては中世の自然法論と同様ではないか。ただ、異なる点(無論以後の議論で参照していく)はむしろ自然法そのものではなく、前提とされる神理解つまり創造主としての神と被造物としての人間理解においてプロテスタントの信仰理解とカトリックの信仰理解から導かれているのであって、前提とされる神自体に違いはない。
 極論するのであれば、私とジョン・ロックとの間では少なくとも前提、始点を共有しながらその理解の相違を問題とするだけですむが(それはお互いの信仰ゆえに)、そうでない読者にとっては前提とされている神自体が問題となるし、問題とされなければならない。
 この点がこれはロックに限らず他の思想家の理解を阻む大きな壁となっているように感じられる。