第一題 第二段落から

 ロックは、自然法の存在の議論に入る前に、それ(つまり道徳律あるいは自然法)がどのように呼ばれているかしめす必要があるとして以下の例をあげる。

 まず第一に、古代の哲学者(ストア派)が考えたように、『道徳的な善または美徳にひとしいもの p139』であり、セネカの述べるように『人間がそれをもって満足すべしとされた唯一善、そして悪徳に溺れた人々でさえ認めざるをえず、それを避けながらもそれを肯定せざるをえなかったほど、高い威厳をもち栄光を備えたあの唯一の善 p139』をこの法則にひとしいものとしてよいであろうとロックは述べる。

 続いて、ロックはこの法則が『正しい理性 p139』という呼び名を持つと述べる。ここでロックの述べる理性とは、『人間であるかぎりすべての人がもっていると主張するもので p139』あり、『それぞれにみずからの学説の土台としているもの p139』であるものの、『思索を結びつけ証明をみちびきだす悟性の能力という意味でいっているのではなく、あらゆる美徳と道徳の形成にひつようなべてのものの源泉となるある一定の行為原則 p139』という意味で述べている。
 
そして最後に、ロックは多くの人たちが『自然法』という呼び方によって次のような法を考えていると述べる。

 

すべての人が自然によってうえつけられた光だけによって見出し、すべての点でそれに服従し、その義務の原則の前提となると考えられているものであり、これはストア学派の人々がしばしば強調したところの、自然に従った生き方なのである p140

 ここで述べられる道徳律はストア派に大きく影響されたものである。これらの議論がどのように第一段落の神理解と結びつくのが以下における問題である。

以下第三段落

 このように述べられる自然法とはつまるところ
 

自然の光によって見出される神の意志の命令であり、何が理性的な自然に合致するか、また合致しないかをしめし、それらを命じたり禁止したりするものである p140

ただここで述べる自然法自然権と区別される必要があるとロックは述べる。

何故なら、権利とはわれわれがある物を自由に使用しうるという事実にもとづくものであり、これに対して法とはある行為を命じたり禁じたりするものであるからである p140

 理性の命令とも言われるがこの理解はやや不正確であるように思われるとロックは述べる。

 何故なら理性は、この自然法を確立し宣言するものであるよりはむしろ、至高の力によってさだめられわれわれの心にうえつけられた法を、さがしもとめ発見するものだからである。われわれが至高の立法者の権威をおかし、理性がたんに探求しうけいれたにすぎない法を理性がつくったものだとするのでないかぎり、理性はこの法の立法者ではなく解読者たるにとどまるのだし、また事実、理性はわれわれの精神の能力であり、われわれの一部分にすぎないのだから、われわれに法を与えることはできないのである。 p140

 以上の考察の後ロックは3つの点から自然法は法としてのすべての必要条件が備わっていると主張する。

 まず第一に、それは上位のものの意志による命令であり、法というものの形式的な要因はこの点にあるように思われる。ただしそれがどのようにして人類に知られうるかは、のちに論ずるべき問題であろう。第二にそれは何をなすか、あるいは何をなすべきでないかをさだめている。このことは法というものにふさわしい働きである。第三にそれは、それ自体のうちに義務を設定するのに必要なすべての条件をふくんでいるから、人々を拘束する。たしかに自然法は実定法と同じようには周知せしめられていないけれども、しかしそれは自然の光のみによって見出すことができるのだから、人々によく知られており、人々を拘束するのにはそれで十分なのである。 p140

 以下第四段落以降で自然法の存在に関しての議論が進む。

以上のことを考慮したうえで、そういう自然法の存在は次のような議論によって認められるであろう。 p140

自然法の存在を証明する議論

第一の議論:理性の命令から導かれる

第二の議論:人々の良心から導かれる

第三の議論:世界の構造から導かれる

第四の議論:人間の社会から導かれる

第五の議論:美徳の存在から導かれる