社会問題について

貧困に関して

 他人からはそう見えないでしょうが社会派のつもりです。でも、自由主義神学なる傾向は死ぬほど嫌い。これも一昨年の暮れに渋谷でやっていた野宿者の炊き出しの手伝い(ただ大した手伝いができたとは思わない)に行ってきた。
 何をしたかというと炊き出しのご飯を一緒に作ったり、暇な時間に一緒に話したり、将棋さしたり・・・etc
 中高の聖書の勉強会のときにも野宿者の問題とか貧困とか取り上げることはあった。でも、そのときは正直のところ、信仰/社会正義(狭義の倫理)とは私の中ではまったくつながりを持ってなかった。当然といえば当然で、当時の私は神を知らなかったわけだから。
 この手の問題に関して、形而上の事柄と形而下の事柄がいかに結びつくかは倫理学の根本問題なわけだけれど、そういう難しい話ではなくてもっと身近なと言うか、身につまされる話。
 同じように手伝いに来ていたある女学生が、こういう活動(つまり慈善活動)に教会にいる友達なんかがあんまり興味を持ってくれないし、腰が重いのが残念だと・・・で、お祈りばっかりしてるという趣旨のことを述べるのを聞いたわけです。
 この意見にはうなずくところ大なのだけど、と同時にお祈り(祈りで象徴的に表されている事柄)もやっぱし大事であると思う。問題なのは祈りと慈愛の行いとの繋がりがどうなのか、考察することが今の教会には足りてないのではなかろうかと思う。
 無論、大学入ってからというもの当初の目的の自然法論についてろくに学べないは、社会教説への考察は足りてないは・・・連関する政治学やらの方面との連絡線も弱いし等々内心不満ではらわた煮えくり返っていたので、その当時の怒りを差っぴくにしても、やはりもう少し両者(祈りと行動)との間の繋がりや協力について考察する必要があると思う。なんと言うか、両者が反目したり完全に分離してしまっては双方共に持ち味を損なってしまうように思う。
 あと、これは以前に述べたことにも通じるのだけど、教会の用いる社会分析の手法は正直のところ古いし的外れの部分が多いように思う。(これは学識者と司教に課せられた仕事なのでまた別で扱うべき)
 
付けたし 共産主義と言うより、広義のマルクス主義について

 で、そもそも批判するにしても肯定するにしても、貧困問題即社会主義共産主義とするのは短絡的すぎるだろうと思う。キリスト教民主主義という選択肢が我が国の社会において取りえないことが大いに残念であるし、きちんとやることやれてないという外部の批判についてはまず受けないといけないとも思う。
 話は変わって共産主義についてなのだけど、マルクスの『資本論』なんて座右で毎日とは行かないまでも折に付けて読んで自分の行動規範にしてる生粋のマルクス主義者って今現在日本に何人いるんだ?おそらく熱心なカトリック信徒並に少ないと思うのだけど。
 かく言う私も中学生の頃に岩波文庫の『資本論』は買ってきて読もうとしました。読んではない、一章の冒頭部あたりで読むのをあきらめた。当時の感想を思い出すに、こんな難しい書籍を読み込んで理解し、行動規範にするような奴はいないだろうし、もしいるとしたなら質問攻めにして試せばよい、といった感じだったと思う。同じようにこんなわけのわからない本読んで理解して信じるなんて奴はとんでもないと思っていたのが聖書なのですが、6年延々質問攻めにし、否定しようとしていたけれど、結果としてミイラとりがミイラになってしまった。中高の頃に優秀なマルクス主義者と一緒に読んでたらもしかしたら私も今頃は共産主義者だったかもしれない。
 それはともかくとして、マルクスに関して言えることはベースになっているヘーゲル哲学からしカトリックの信仰理解、基礎哲学と協調させることは困難であろうし、それにもまして神学、形而上学を批判否定したフォイエルバッハは申し訳ないが神学やる人間の敵でしかないわけで、思想としての共産主義については見るべき点はないと考える。

平和について

 これは書くと長くなるので短くαとΩのみ書くと、人間の回心が唯一の問題であると思う。これがすべからく平和について云々行動するにしろ議論するにしろ始めであり終わりであると思う。