沢田和夫、日本カトリックの神学業績―バチカン公会議開催中に見る―、日本の神学、1963

 第二バチカン公会議第一会議終了後、第二会期開催前に書かれた。

 

さる一九六二年十月十一日第二バチカン会議が開催され、日本からは東京大司教土井辰雄枢機卿はじめ、各教区の司教十四名が参加し、十二月八日をもって第一会期を終えた。司教団神学顧問にパウロ・フィステル神父、長江恵司教神学随員に沢田和夫神父が随行した。その第二会期は今年九月八日からということになっている。 p119

 第二バチカン公会議準備期間において日本人の手による論文。

 …準備は一九五九年来三年がかりで行われてきたが、この準備段階における論文として、日本人の手になるものには、南山大学 沢田昭夫「カトリック的改革」(『世紀』一九五九年七・八月号)、「公会議とは何か」(『世紀』一九六〇年五月)、「第二バチカン公会議と教会の一致」(『世紀』一九六一年二月)、「バチカン会議への道」(『世紀』一九六一年九月)の四つをまずあげることができる。 p119

 引用者補足:本論考注 小林珍雄「第二バチカン公会議について」(上智大学『ソフィア』一九六一年10巻3号)

 典礼に関して以下長いが引用する。

 まず議案の審議順序であるが、議長団が、神学委員解作製の「啓示の源泉」等四つの議案をあとまわしにして、第五「典礼」の議案を最初に取上げることにしたことも注目すべきことであった。これは全然革新の風のない四議案に比して典礼の議案が、はじめからかなり革新的なものと見られていたからである。ここで保守とでも称すべきは、つまりキリストにまでさかのぼる典礼の本質的なものはいうまでなく、典礼用語と外形について、アウグスチヌスとかアンブロジウス以来の伝統をくずすまいと恐れ、典礼の改革はすべてローマの専属管轄にしておこうという考え方であり、革新というのは典礼の不可変的部分と可変的部分とを区別して可変的なものには思いきり諸国民の独創性を取り入れようとし、典礼改革を少なくともある程度まで、各国の司教団にゆだね、さらに音楽・芸術の分野では一般信徒の発意を取入れる機構を認めようとする流れをいうこととしよう。この二つの流れが、はげしくせりあったのであるが、革新の力が前進した形である。十一月十四日にようやく討議を終え中間採決をした結果、賛成二一六二、反対四六、無効七という数が出て、長年の典礼改革問題も、ここで一応勝負がきまった。つまり、典礼における劃一主義がゆるめられ、諸国民の独創性がおりこまれることになる。ラテン典礼をひとりよしとするのではなく、東欧典礼の比重が上る。多様性における一致が力説されるようになる。これはエキュメニカルな意味をも持つ。こういう方向がはじまったといえるのである。 p120

 私はあれやこれや典礼について述べる必要を感じないし、述べるつもりもないが、何か述べるのであれば当然ここで記されている公会議以前の典礼改革の流れ、また公会議でどのような議論がなされたのか、その結果作製された公会議公文書、また各地方教会での具体的適応と順を追って議論をすべきだと考える。