ポストモダンに於ける普遍性について

カトリック教会の教え』序より 

現代人として、また不確実性の時代であるポストモダンを生きる人々にとって、価値観の多様化と個人主義の蔓延、さらには個々人の生活の孤立化の中、充実した理解と見通しをもって信仰を生きるためには、かなり綿密な教理の学習が必要と考えられたわけです。 pi(鹿児島教区司教 糸永 真一)

書き途中

続・学としての神学 その責務についての小考察 『祈りについての補足』

 前回(http://d.hatena.ne.jp/CanDy/20081219/1229615705)の続きを書きたいのですが、私の怠惰さと無力さ故にクリスマスに間に合いそうにありません。ですが、一点重要な点を欠落のないように補足をしておきたいと思います。本来はこの論考の結論で書こうと思っていましたし、最後の結論として書くべき事柄なのですが、このまま論考を必要な事項を欠いたままにしておくことにより誤りや不安が読む人に生じないとも限りませんから。

 最後に取り扱うべき課題は祈りについてです。今回のテーマにおいては『神学において祈りがどのような位置をしめるのか』となります。私はまず神学を〈神を学ぶこと〉としました。次いで、神学に於ける教師は何よりも神自身であることを示しました。そして神は、父としての神、子としてのイエス・キリスト聖霊それぞれのやり方で啓示を通して、示し、教え、導きました。つまり神学とはまず第一に啓示を通して神を学ぶことを意味します。神学においての祈りとは神学をすること、つまり学ぶことその行為自体が祈りとなります。つまり、ミサの最中にそしてそれぞれのやり方で唱えられる祈りの一つとしての神学となります。度々神学に対して向けられる批判として、祈りを欠いた知性のみの行為ではないか?というものがありますが、祈りを欠いた神学は上記で述べたように、神学が啓示に基づくものである以上成り立ちえません。この点を重々承知しておくべきです。以上のことから神学者ごとの神学が異なることへの疑問の回答にもなるでしょう。神学はそれぞれの神学者がそれぞれの時代、文化、習慣の中において神から受けた啓示に対して讃美と感謝をするために行なわれる祈りだからです。無論神学者特に司牧に密接に神学が関係する以上彼等の祈りつまり神学は彼ら自身のものではなく教会の神学、教会の祈りでもあるわけです。

ニコラス総長について

 大学主催の講演会を拝聴した。非常に魅力的な人物であった。講演の内容に関してはただただ納得するばかりであった。問題は具体的にどのような事柄を実行に移していくかである。あと最後に一つあった院生の質問も非常によろしかったし、私が質問したかったのもその点についてであった。端的に表わすと本学の教授陣、特にカトリックの信仰に導かれて学究を行なう人々は信仰に基づいての真理の探究をあきらめていないだろうか?と言う問いである。特に神学部の先生方は日本において神学を行なうとはどういうことなのか?ここ数日問題にしている神学とはそもそもどのような学問で、何を対象として、何を明らかにすることができるのか、こういった問いに真摯に取り組んでいるようには残念ながら学部生の私にも足りない点が多いと思わざるを得ない。
 講演で述べられているように期待があまりに大きいので至らない点が際立ってしまっているのだと理解できただけでも講演を聴いた価値はあったと思う。
 早期に必要なのが、100年近くの間に行なった研究、業績の確認、整理とそれが日本の社会の中において、特に日本の思想史においてどのように位置づけられるか確認すると伴に、現在の社会情勢その他を明確に把握するよう努めることが先決である。
 何のために私があくせくと資料をコピーし、整理しているのかそろそろ理解して頂いても良いころではなかろうかと思うのだが、どうもそうでもないらしい。兎も角今やってることは今期中で一段落つけたいと思う。