剥き出しの生 表現することとの関係において

表現にともなう恥ずかしさについて

Ustream.tvというサービスを使って自分の声で表現をしたのだけども、独特の恥ずかしさと恐れをともなった。この恥ずかしさと、恐れの原因がなんであるかの考察と、そこで述べたあまりにまとまりのない思考について書き留めておく。

  • 動物と人間の魂の違いについて

 
 デカルト方法序説』の五部で扱われた問題について、あまりにまとまりがなく、非生産的なまさしく呟きをおこなったのだけどもそのことについて。
 五部においてデカルトは、人間と動物を、ことばの使用によって区別が可能であると主張する。
  『人間ならばどんなに愚かで頭がわるくても、狂人でさえもその例外でなく、いろいろなことばを集めて配列し、それでひと続きの話を組み立てて自分の考えを伝えることができるが、反対に、他の動物には、どんなに完全でどんなに生まれつき素質がよくても、同じことができるものではない。』
 デカルトは、ことばと自然の動作を混同してはならないと指摘し、自然の動作は情念を表しており、機械によっても動物によっても模倣されうると指摘している。
 ここでデカルトの指摘する「ことばの使用」とは、自分が言うことは自分が考えていることであると明示しながら話すことであり、何かの記号を自分たちで発明しその記号によって、人に自分たちのことを理解させることである。このことが人間の理性、そして魂の裏づけであるとしている。
 しかし、このようなデカルトの考えに対しては、数々の批判が当初から存在した。一般的に心身二元論と呼ばれる考え方であるが、彼の哲学の根本には人間存在を至高のものと見る一つの傾向がみて取れる。その過程で人間と動物を分離し、人間のみに魂を認めるが、これは人間中心的であるとの非難を受ける。これは不当にも彼の哲学が神をも恐れぬ人間の驕りに基づいていると非難されことすらあるが、彼は無神論でもなければ、むしろ無神論に対しての強力な反対論者であったことは、彼の思考を追う過程で容易に知ることができる。

 『方法序説』五部においても次のような記述がある。

なおわたしはここで、魂の問題についてやや詳しく論じた。この問題がいちばん重要なものの一つだからである。…以下のように想像することほど、弱い精神の持ち主を徳の正道から遠ざける誤謬はないからだ。つまり動物の魂がわれわれの魂と同じ本性のものであり、したがってわれわれはハエやアリと同様に、この世の生ののちには、何ひとつ恐れるべきものもなければ、希望すべきものもないと想像することである。これに対して、動物の魂とわれわれの魂がどれほど異なっているかを知ると、われわれの魂が身体にまったく依存しない本性であること、したがって身体とともに滅ぼすほかの原因も見あたらないだけに、われわれはそのことから自然に、魂は不死であると判断するようになるのである。

  
ここで私が示したかったのは霊魂の不滅でもなければ、動物の魂の有無についてでもない。デカルトは一般に近代哲学の父と呼ばれる人物であり、「我思う故に我あり」との言葉をして彼の哲学が近代の個人主義の基礎をなしているとも言われる。そして彼のこの有名な字句をもって驕り高ぶった近代人のアダムとして、罪をはじめに知ったものとして非難するものが後を絶たないが、彼を非難する者たちが不文律として潜まし漂わす、神に対する畏れと人間を他の動植物と同じく自然の一部として扱う姿勢そのものは皮肉にもデカルトの哲学の基礎をなしているということである。

  • ことばの使用と理性について

私はつねにこう考えてまいりました、神についての問題と精神についての問題との二つは、神学によってよりはむしろ、哲学によって論証されねばならない問題の最たるものである、と。なぜかと申しますに、私たち信仰ある者にとっては、人間の精神が身体とともに滅びるものではないということと、神が存在するということとは、信仰によって信ずるだけで十分なのでありますけれども、信仰なき人々の場合は事情が別であって、あらかじめこの二つのことを自然理性によって証明してみせたうえでなければ、いかなる宗教も、また一般に、いかなる徳のすすめすらも、彼らに受け入れさせることはできないと思われるからであります。…さて、神の存在を信じなくてはならぬのは、それが聖書の教えるところであるからであり、逆に、聖書を信じなくてはならぬのは、それが神に由来するものであるかだ、ということは、まったく真であります〔信仰が神の賜物である以上、ほかのことを信じさせるために恩寵を与えるところの神は、同じく恩寵を与えることによって、神自身の存在することをわれわれに信ぜしめることもできるはずだからであります〕。
しかしながら、こういう議論は、信仰なき人々の前にもちだすわけにはゆかないのであります。彼らはそれを循環論だと判断するでありましょうから。(引用者強調)

以上は、デカルト省察の趣旨と意義をパリの神学部に対して説くために送った書簡からの引用である。デカルトの以上の問題意識については神学部生の一人として強い共感を覚える。デカルトの述べるように神の存在の自然理性での証明は神学ではなく哲学の仕事によるものでなければならない。理由については、上記の強調部が端的に物語っている。
神への確信に基づく、思弁活動はデカルトをはじめ、聖トマス、アウグスティヌスと歴代の知者によってなされていますが、彼等の書いたもののみを追いかけるのは正しい方法ではないでしょう。それは、デカルトが『方法序説』で述べた探究の方法に背くものともなります。現在私が直面する問題とそれに対して私の悟性を使用しないのであれば、正しい思索とはなりません。

  • 表現と恥ずかしさ 

上述のとおり、私の目的もまた神の存在と人間精神に関することがらである。このことは、私の書いたものによってクッキリハッキリ明瞭に表されることを意味しない。神の存在も人間の精神も外部にあるものではなく、私のうちにあるものである。デカルトが指摘したように、魂を持ったものである人は表現により、自ら考えたことを明示し、それを他者に提示し理解を促す存在である。私の表現の目的はわたしの“我思う”記し、“我あり”とするものである。しかしながら、表現は、これもデカルトの哲学に向けられがちな批判であるが、自己完結的なものではない。受容者の想定のされない表現など存在しうるものではない。和辻哲郎も『倫理学』の冒頭で指摘していたが、人間は間柄存在である。読まれるものを書くためにはまずもって、「思う」必要が発生し、書かれたものを読むのにも「思う」必要がある。表現は、思考や思索そのものではなく、媒介であり触媒である。表現されたものに対してなされる、誤読の恐れは無意味であるし、その恐れは害悪以外の何者でもない。表現者も受容者も同じ意図や考えを持たねばならないなど、一呼吸おいて考えてみればいかに滑稽であるかわかりそうなものだ。
故に私は自らの書いたものを媒介として「話」コミュニケーションを求める。表現、コミュニケーションにともなう特有の恥ずかしさ、時として恐怖になる場合もあるが、どのような形であれ表現する際に一種の気恥ずかしさと恐れを抱かなかった人がいるであろうか?

  • 総表現時代の意義と意味

あらゆる人が(原理上は)インターネットという空間において様々な方法を使い表現が可能となったと言われる。こうして表現している以上、“言われる”ではなく表現しているといった方が正しいだろう。表現方法が万人に開かれる意義には二つある。アーレントの指摘した、表現を世界に挿入し続けることで成り立つ政治空間が成り立ちうること、ついで表現にともなう恥ずかしさに万人が直面したことである。

  • 傷と愛着