哲学と信仰 信仰という名の解凍コード

 前回のエントリーで「信仰という名の解凍コード」と題して二つの問題提起をしていましたが、今回は哲学と信仰の問題を中心に考えたいと思います。
 まず哲学について考えてみましょう。哲学とは何であるか、それこそこの問題を主題とした書籍が数多あるような問題です。ここではそれらの見取り図を作ろうなどと無謀な考えを抱くことは早々に放棄いたします。ここでは哲学と呼ばれているものをわたしがどのよう考え、それを信仰との関係においてどのように位置づけるかについて話していくこととします。
 哲学(philosophia)は知恵への愛、希求の意とされます。知恵(sophia)、叡智とは何でしょうか?
 ここでの知恵とは知識とは区別されるものであることは理解されると思います。ですが、知識と知恵の違いがどのようなものであるか明瞭に述べることは非常に困難でしょう。
 ここでもわかるように日常的に使われる際のことばと哲学書で記されるような言葉とはオトが等しいにも関わらず意味が異なる場合が多々あります。このことが明瞭な思考の妨げになることが度々あります。
 ではこの困難さを避けるためにはどのような点に注意しなければならないのでしょうか?
 言葉の使用を厳密にしなければならないことはすぐに理解されるでしょう。ですが、どのようにすれば厳密な言葉の使い方が可能になるのか、を考えるとき一つの壁にぶつかることとなります。
 哲学を非難する際よく指摘されるのが、難解難渋なお言葉を呪文のように唱える哲学者の存在です。このことが、この問題の端的な例であると言って差し支えないと思います。
 哲学をするさいの壁がここによく表れています。哲学には必ずなんらかの特殊な哲学語を知らなければできないといった理解です。この理解は、哲学を嫌う人、好く人双方に同様に見られる一つの傾向です。ある人は、わたしは難しい術語を知らぬから哲学はわからないと言い。またある人は哲学するために熱心に術語を覚え、使おうとします。
 術語の使用可能性/不可能性が仮に哲学の可能/不可能性と直結するとしましょう。