岐路に立つ教育

岐路に立つ教育 (長崎純心大学学術叢書)

岐路に立つ教育 (長崎純心大学学術叢書)

《教育ははたして苦役であるのか》

  • はじめに 

  教育について少し記してみたいと思います。わたしは長いこと教育を受けてきました。現在でも高等教育機関で教育を受けています。わたしの属する学科の特性から教育に従事する、ないしこれから従事する、さらには従事したいと考える人たちと多く知り合う機会を得ました。そこで感じる違和感について少しまとめることが出来れば実りのあることと思い綴っていきます。
  教育を強制、ないしは苦役、つまり本来不必要なものであるとの考え方があります。教育が仮に強制を伴うものであるとすれば、なぜ教育には強制が伴う必要があるのか?ついで何が強制であるのか、を問わなければなりません。
  教育について書くに当たってわたしは四つのカテゴリーを用意し、それらを分けて考えていくことが読者にとってもわたしにとっても有益だと信じています。まず教育を以下の四つのカテゴリーに分けて考えます。公的教育と私的教育、道徳的教育と知的教育。これら二つの軸を組み合わせ、4つのカテゴリーわけを行います。つまり、公的で知的な教育/公的で道徳的な教育/私的で知的な教育/私的で道徳的な教育、と分けることができます。
  読者は教育をカテゴリーわけすることに異論はないことでしょう。ですが、そもそも公的/私的とはそもそもどのようなものなのか、知的/道徳的とはどういうことなのかと疑問を持つに違いません。さらに気のはやい人たちはどのカテゴリーに何を入れるかを問題にし始めるでしょう。
  これらを分けて考えることが有益であるとわたしは述べましたが、それは上で指摘した混乱と衝突という不利益を込みでのことです。しかしながら、この対立を抱えたまま議論を進めるのは得策とも思えません。まずわたし達の議論の前提を創ることが最良でしょう。
  前提を共有しない議論の実りは少なく、また前提のない議論は存在しません。ここでわたしが教育とは何であるか、と問い始めた瞬間に失望の顔をするのが目に浮かびます。必要としているのは目下の問題、間近に迫った、断固とした意志に基づいてのり越えなければならない障壁であって、抽象的理想論を求めているのではない、と。
     「急いては事を仕損ずる」と学校で習いませんでしたか?
  わたしは現時点で生徒に向かい合って問題を誠実に解決しようと奮闘する人、この春から教壇に立つ人の不安、これから教壇に立とうと決意した人の希望を間近で見ているつもりです。そしてこれほど多くの人が教育を社会が抱えている最重要の懸案であると意識していることを嬉しく思います。しかしながら、どうしてこれほど混乱と相互の不理解と衝突がこの問題に関してなされているのでしょうか?それは教室の中で、生徒と教師と、学校の中で教員同士で、社会の中で学校と国民との間で何故これほど理解が進まないのか?このことについて問を立てるの必要があります。
  御用聞きのようにそれぞれの立場ごとの教育を集め羅列するのでは意味がありません。重要なのは教育が何であるか問を立てそれぞれの立場で直面した雑多でつながりがなく、時として相矛盾する問題につながりと、一致をもたらすものでなければなりません。

《人格という名のマスタープラン》

*書き途中