過去ログ(歓談室での話)

2006年7月31日の過去ログ   

前のエントリーにも書いてるけど小論文の授業が今日から始まりました。読んでもらったら分かるようにまだまだ不十分です。800字という限られた字数で自分の思考を綴るのがいかに困難か理解できよかった。自分が10代の間に考えてきたことを書ききることはできませんでしたが、喧嘩を採点者に売る事には成功しました。答案には点数とコメントが付いていたのですが、そもそも喧嘩うって書いた文章なので点数ははなっから気にしておりませんでしたが、コメントがあまりにバカ丸出しだったので当初の予定とおり授業終わった後に議論しに行こうと思って講師のところに採点者は今日校舎に来ているのかと尋ねると、私の答案を添削した人は赤ペン先生で添削しかしておらず、質問などは講義を受け持つ講師がおこなうとのことなので講師室でゆっくり話すことに。
コメントが気に食わないと話し始めたのですが、コメントでのアドバイスは私も認めていて妥当なものですし、たぶん前にコメントしてくれた人の感じた違和感と同じだと思いますのでここではあえて書きません、要するに高校生らしく人権作文コンクールの作品を書けばいいだけの話しです。前のエントリでも触れましたが、私が違和感を持ち批判したかったのは伊藤氏が持つようなリベラル思想と案の定生徒によって提出された型どおりの無批判な作文群、そしてそれを求めるおバカな大学。で色々書いてもいいのですが、今回の一件でよくわかったのは自分の言語運用能力が未発達で十分な鍛錬がなされていないことこれが一番大きい。私の言語運用力言い換えれば表現力においては書くことよりも話すことの能力の方が高いし、これは過去の経験によるものなので書く能力は今年中に伸ばそうと思います。
なんか、言葉にしにくいのですが久々に知的な会話を楽しみお互いに終わった後有意義で実に楽しかったと言葉を交わし席を立った気がする。私はおそらくこの経験に飢えていたのだろう。初めのうち講師の私に対する二人称はあなたであり、小論におけるアドバイスをするものであった。私もそれは真摯に受け入れたが、そんなものはこの文章提出した時からしている。だがここでこんなことわかってると感情的になることはもうないなぜなら私は17の時の私ではないから、私がその時点で私より知的な大人に反発した初めての相手が父であったが落ち着いては話せなかった。しかしここでどうするのがよいか私は知っている自己分析しその答えを彼に対し返答することが最もよい答えで、その後に逆説を挟んで自分の論を進めればよい。私が以前のエントリというよりも今のところ考えてきたこと、今まさに考えていることそのものを直接ぶつけた。初めの間、なかなか議論がかみ合わず行きつ戻りつであったが、実に有意義であった。途中から講師の私に対する二人称は君になっており声も一段大きくなり、そして何より遠くを見る目で熱心に話す人を久々に見た。これはどう言ってよいかいささか悩む。私は話す時はどんな時でもどんな相手とも片時も視線を話さず話すことができる、無論話す時もあるがそれは意図的に相手の会話を止めたい時考え込みながら視線を下に落とす動作であり、相手にあなたの考えに真剣に思考をしていますという一種のポーズである。相手に話し続けようと思わすのに私個人は非常に有効なことだと思っている。会話上手聞き上手を自負するものとしては知的な人間と話す数十分が新書10冊に勝ると信じて疑わない、そして相手の思考それ自体が口から発せられときその人の視線は私から離れ遠くどこかを見据えている。この光景を眺め言葉を受け入れると心底うれしくなる。残念ながらここにその会話を書き起こすことはできないし、もしできたとしてもひどく味気ないものだと思う。仮にキーフレーズのみあげるならば、リベラル、自己決定権、パターナリズム、自己責任、懐疑、リバタリアン、社会規範、など。
私はこの中で、授業中にとりあげられた生徒の解答についての疑念をぶつけたが、君の考えに比べると浅いし学力的には低いが、それはそれで認めるべきだと返ってきた、講師としてもあの‘模範’的解答からもう一歩進んだ方が好いし、君のように深く掘り下げて反駁を試みるのは意欲的で非常によい。先ほど大学入試の小論文の解答としてはある程度の妥協をすべきだと薦めたが何も思想転向を共用するものではないと。
思想転向なるフレーズに心底萌えながら、そのようには受け取っていないと返した。
実のところを言うと初め授業のバカ丁寧な解説、無論受験テクニックをバカにし、解答例を読み私の予想そのもののチープさに心底落胆、問題意識のなさと浅さとに侮蔑の感情を抱き、現代国語の授業よろしくもう二度と出まいと思っていたが、個人と社会のあり方、社会規範と自由の両立に関して講師の必死の説明のさなか、二度だけJ.S.ミルの名がまるでつぶやくように出できた。おそらく彼はこのフレーズが生徒の心に留まることなど期待してなどいなかったであろうし、10数人のマジメな生徒も誰一人としてその名を気にしているようには見えなかった。そもそも、講師が必死になっておこなった講義をあのようなレベルの問題意識しか持ちえない生徒が理解できるかはなはなあやしいものであるが、私の耳にはそれが残り、このことがなければおそらく今日のひどく愉快な経験は得ることができなかったであろう。何らかの書籍を読み知識を得ることはハテナのキーワードリンクと同じように人とのつながりをもたらすものであると実感した。仮に書籍すべてが理解できなくとも読むだけでも非常に実り豊かなものだ。
このとても心地のよい楽しみを同世代の若い人たちが得ていないようで心底悲しくなる。これを得ることができると自信を持って言えるのでいささか不愉快に読む人をさせるかもしれないが大学で学ぶ人間がこのことを楽しまないのであれば早々に大学を立ち去るべきである。そして、この楽しみに必要な特別な能力があるわけではない以上、大学の教員は自ら作成した入学試験を呪いながら日々の糧を獲るために無自覚の若者が目覚めるまで苦闘し続けるべきだ。大学の中の人には厳しいこと言うけど彼等学生は言うまでもなく金の卵を産むにわとりの卵である。卵を返すのに親鳥ができるのは心配しながらただただ暖めるだけである。無論そのうちの何個は腐ってるかダメかもしれないが、皆卵であるどれがそのダメな卵か見分けることは難しい。まあ、頑張れ。あんまりかわいそうだから、研究室まで行って余計な仕事を増やすという加虐趣味を来春には実行させてもらう。

8/6に20になるので反省をこめ、もう少し詳しく書こうと思う。