過去ログ

2007年11月19日の過去ログ

まず初めに述べておかなければならないことですが、学ばない人は死んでいるのと同じことです。
ザビエルも彼の書簡の中で述べていましたが、当時の日本人は知的好奇心に富んでおり、この美徳ゆえにザビエルは日本にヨーロッパと同様の大学の設置を夢見ていた。この夢がかなうのは、20世紀に入ってからであるが明治維新という形で日本は西洋の知識を驚くべきスピードで昇華したことからもザビエルの目に狂いはなかったのではないか?
 上智大学を含め、開国以来わが国においてキリスト教カトリック/プロテスタント違わず)の負った役割として最も大きなものが教育においてである。学校の設立の経緯は、さまざまであるが女子教育含め初等から高等教育までで果たした役割については再度認識しなければならない。
 第二次大戦をはさみ、新憲法下において信教、精神の自由などを認められたことにより役割は大きく拡大することが期待されるが、明治期からの問題がここでも立ちはだかることとなる。
 ミッションスクールと一般的に理解される学校群、これは母体となる修道会/教団や設立者の個人的志がキリスト教に基づいているという共通項でまとめられる。また各校の設立意図と精神は校風というかたちで理解されている。
 これらの学校においての宗教ないしは道徳教育の現状がどのようなものであるかについては諸研究に譲るが、中等教育段階までは時間的にも十分とはいかないかも知れないが比較的多くの時間が割かれており、また校風、伝統といった無形のかたちでそれらの設立時の精神が伝播する可能性が残されているが、高等教育においては惨憺たる現状である。
 これは本校(上智大学)においても何ら違いはない。本学の現状については後に資料を引用して論じるが、個人的な見解としては絶望する必要は全く感じないが、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(マタイ9.37)の通りである。
 本学の入学者においては、ミッション校の出身者が比較的多く(特に女子において顕著である。*後に資料を引用する)、カリキュラムにおいてもキリスト教に関して学ぶ機会が多く与えられており司祭から直接教授を得られる機会もそれには含まれている点を考慮しても勉学の環境としては非常に優れていると言ってかまわない。
 しかしながら、この環境を学生、教員の双方が積極的に利用しきれているのかについては大いに疑問である。個人的でかつ具体的なkとを書き連ねたいところだけれども、「汝、兄弟を裁くことなかれ」はわたしの掟であるし、ファリサイ派をして、「彼らは他人の背に罪と言う名の重石を背負わせるが、自らの指一本動かそうとしない」とのイエスの言葉が示すように、わたしがやるべきは学ぶことであるし、それは教員であろうが学生であろうが共に学ぼうとすることであると思うので私自身が行動で示すしかない。 
 共に学ぶことを阻害するもの、聖―俗の区別そのものにあるとわたしは感じるが、溝を築いているのは双方である。私自身大学に来るまで意識をあまりしなかったが、司祭及び神学者がひどく内向きであるということだ。前提の無い学問や哲学など失笑ものであるというのは、ショーペンハウエルも述べていたことではあるが、彼は同時にそれらが根柢においては相通じていると至極全うで当たり前のことをきちんと述べている。この内向性と閉鎖性に関しては人文科学の教員にそれを他の学問領域と比べて強く感じる。
人文科学における偏屈さは自然科学の興隆に対するルサンチマンと一蹴してかまわないものであるが、問題はその閉鎖性故に情報の共有がなされていない点にある。
ショーペンハウエルは『知性について』において、哲学するための最初に求められる要件を次のように挙げている。 

第一に、心にかかるいかなる問いをも率直に問いだす勇気をもつということである。そして第二は、自明の理と思われるすべてのことを、あらためてはっきり意識し、そうすることによってそれを問題としてつかみなおすということである。最後にまた、本格的に哲学するためには、精神が本当の閑暇をもっていなければならない。pp11-12

また次のようにも述べている。 

事物そのものを自分で考察してこそ、洞察も知識も本当に豊かになりうる。かような考察のみが、ひとり身近に湧きでている生き生きとした泉だからである。p17

デカルトも同様の趣旨を述べていたが、相手にしなければならないのは自らと言う名の書物と世界と言う名の書物の二冊である。もし二冊も読む気力がないのであれば、どちらか一冊を選ぶということになる。特に不愉快なのが、この二冊のうちのどちらか片方のそれも一部分のみを読みそれで二冊すべてを論じている不届きものに関してである。
ヴェーバーが『職業としての学問』で述べるようにそれが学問的な誠実さにつながるという意見もあるが、それは所詮凡人が天才の真似事をしようとした際の逃れざる制約にすぎない。
この学問的誠実さ・・・・学問自体が不誠実である以上それに基づいた誠実さなど悪徳にすぎないが、この悪徳は学部生の間にも広く蔓延しておりきわめて遺憾なことに勉強熱心なものに顕著に現れている。
不誠実さは、学部生において端的に現れる。〜学部という自らの帰属する学問領域を意識するあまり他分野への好奇心、関心を意図的に取り除こうとする傾向である。このことに対して彼らはむしろ勉学においては正しいことだと考え違いをしていることである。
この間違いはいささかでも古典的作品を通して一人の思想家を理解しようと努めたものであればすぐに誤りであると気づく事柄である。彼らの扱った領域は大学の狭いディシプリンに阻まれるものではないし、下手をすれば彼らが思索をめぐらした当時、大学にはそのような学部、学科など存在していなかったことがざらである。と同時に思索とその生成物である学問は基本的に個人に属するものであり、大学やましてや学部や学科に属するものでないことも理解できるはずだ。
この間違いを助長しているのが、概説的な講義や一般教養で行われる導入目的の総花的な講義である。本来これらの講義の目的は学部生を学問に導くためではなく、その道を断念させるために存在するはずである。
ショーペンハウエルが以下に述べているとおりである。

哲学の歴史を研究して哲学者になれると思っている人々は、むしろその哲学史から、哲学者も詩人とおなじく天賦にしてはじめて成るものであるということを、しかもその誕生が詩人よりも遙かに稀であるということを学んだ方がよいであろう。p18

しかしながら、どのような形であれ学ぶことが意味を失うことはない。どのような一級の古典であっても各人の問いを完全に満たすことなどありえないからだ。自らの問いに対して答えるのは自らである。学問の誠実さは自らの問いがいかに瑣末に思えようともそれを捨てず、そして他者の力を借りながらそれに真摯に答えようとするものである。
こと神学部においては、本来もちうる普遍性や超越性、また長年培われてきた膨大な遺産を聖と俗の二項対立に加えて、学問の細分化によって自らの持ち味を生かしきれていないのが現状である。かつて神学の端た女とまで呼ばれていた哲学の問いに対してまで防戦一方か、下手をすると門戸を閉ざしている有様である。
また、被造物としての世界を扱う自然科学の統合も神学に課せられた責務である。現状ではあくまで教会内輪の教義に基づく非難や批判が主たるものであり、自らの教義、神学のうちに自然科学、それに加えて科学技術をどのように位置づけるかの努力が足りていないのではなかろうか?
本来自然科学も神学の一部であったことを考慮するなら、学問の統合を担うべきは間違いなく神学である。
神学の現状はまるでパンドラの箱の中の希望である。箱の外にでなければ何らの意味ももたない。