過去ログ(ウェブ時代をゆくの書評)

2007年11月6日の過去ログ

  • はじめに

日付も変わったわけだし、書評を書きます。実は今日、神保町に行った際に、梅田望夫さんの『ウェブ時代をゆく』と斎藤孝さんの『日本を教育した人々』を取次店で購入してしまった。なお、私は出版物の流通経路だとかよくわかっておらず神保町だって昨日が二回目の訪問なくらい疎いわけですが、ふらぁ〜としてたら店先に平に積んであって、あぁ、と手にとってそくレジに・・・・受けとったのがレシートでなくて伝票であったことに疑問を持たないぐらい天然ボケなので自宅に帰ってから事態に気づき、グーグルで調べてみると取次店であるとか書籍って面白い販売形式をとっているんだなぁと感心したのです。
すぐにでも書評を書きたかったですが、フライングゲットであるし、まずいかなという気もしたので日付変わるまで我慢してました。

  • 義人と志

キリスト者の自由

兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉の罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のようにあいしなさい」という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いをしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。
ガラテヤの信徒への手紙 5.13-15

キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。
キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する。
マルティン・ルターキリスト者の自由』p13

以下において近代人、つまり独立した個人の二重性に関して記していく。人間の二重性、公人-私人についてである。

人は信仰によってのみ義とされる

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

日本を教育した人々 (ちくま新書)

日本を教育した人々 (ちくま新書)

梅田氏と斎藤氏の対談「大人の作法

 上記書籍を一読して最初に指摘しなければならない点が一つある。梅田氏、斎藤氏両人が現在起っている変化を日本が明治維新として経験した変化と対比して見ている点である。この点に関しては異論はない。同様の意識を持ち歩んできたつもりの私からすればむしろこの指摘が今頃になって出てくるのに遅すぎるといった印象すら受ける。
 両人の指摘が広く一般に流布し受け入れられることに何ら問題はない。しかしながら、両人の見落としているものについて私はきちんと指摘しておかなければならない。梅田氏の言うところの「シリコンバレー精神」の源泉に関してである。
 そして、シリコンバレー精神の源泉、源流、先に記すとそれは「信仰」であるが、この点に関して敢えて無視を決めた明治維新ロールモデルとする斎藤氏の提案を到底受け入れることはできない。現在の混乱、そして先の大戦直前に見られた混乱と混沌に共通するのは「洋魂」(和魂洋才の和魂に対応するものとして)をブラックボックスにしてきたつけである。
 これは決して「和魂」を捨てろと言っているのではない。明治期の多くの人物が「洋魂」について深い理解を示し、それをいかに消化、受容するかに苦心している点を見れば明らかであろう。斎藤氏が取りあげていた夏目漱石ももちろんその一人である。そして漱石に多大な影響を与えたケーベル、そして彼に学んだ西田幾太郎、和辻哲郎九鬼周造、岩下壮一などがさまざまな形で洋魂の消化し、和魂と融合させようとした試みを再度評価する必要がある。
 シリコンバレーの精神、アップル社、グーグルそれぞれの企業の基盤となっている思想であると梅田氏が指摘するものの原型が何処にあるのか、それは間違いなくベンジャミン・フランクリンにおいてである。マックス・ヴェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」において、フランクリンにおいて資本主義の典型を見いだしたが、これと同様の作業を現在の我々も必要としている。
 私人、私企業でありながら公的な利益を追求し、社会を改善する姿勢はフランクリン、グーグル双方に共通する思想である。また、彼(フランクリン)がアメリカ独立に深く関わっていた点や彼自身エンジニア(発明家)であった点も考慮に入れておかなければならない。彼の思考、そして度々梅田氏の書籍で指摘されるシリコンバレー精神は何処で生まれどのように成長してきたのか、それはホッブスニュートンベンチマークとするイギリスの思想から出発したものであろう。この事は私の大学での研究課題である。
 いまだ不明瞭な点が多いが、この思想的展開はダーウィンの自然観にも通ずるものでもある。自然神学の諸問題と自然法、この二つのタームが今後の大きな課題である。技術が世界を大きく変化させるのではなくその背景にある思想が世界を変化させるのである。
 二つの課題、新たな技術、そしてそれによって変化する世界とどのように付き合うか、されにその変化していく世界で人間同士がどのように関わっていくかである。
 梅田氏が「狂」と言い、斎藤氏が「志」と形容するものを私は「信仰」として記す。インターネットはグーテンベルクの発明以来のものだと言われるが、グーテンベルク活版印刷が生み出したものは何だったのか?
 当時印刷されたものそれは聖書であった。しかも、それはラテン語から各国の言語、英語、ドイツ語などに翻訳され出版された。これは一種の島宇宙化と捉えることができる。教会全体を統括するカトリック教会から領邦ごとの教会へと島宇宙化が進展した。政教分離を伴う近代国家の出現はさらに信仰心を個人のものとした。しかしながら、この島はあたかもロビンソークルーソーが暮らしたような絶海の孤島である。相互の交流は非常に乏しいものであった。そのため人々は共通項を求めその受け皿として国家や民族それらの意識を伝播するためのマス・メディアが発達した。結果として我々は自由と独立を失った。
 上記リンクにもあるが、両人の主張において重要なキーワードとなる自助―独立と自由―の精神を涵養し発揮するにはどうすればよいのか?

言論と活動

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 
ヨハネによる福音書1.1-5 

もし人間が互いに等しいものでなければ、お互い同士を理解できず、自分たちよりも以前にこの世界に生まれた人たちを理解できない。そのうえ未来のために計画したり、自分たちよりも後にやってくるはずの人たちの欲求を予見したりすることもできないだろう。しかし他方、もし各人が、現在、過去、未来の人びとと互いに異なっていなければ、自分たちを理解させようとして言論を用いたり、活動したりする必要はないだろう。
ハンナ・アーレント『人間の条件』pp201-202

人びとは活動と言論において、自分がだれであるかを示し、そのユニークな人格的アイデンティティを積極的に明らかにし、こうして人間世界にその姿を現す。しかしその人の肉体的アイデンティティの方は、別にその人の活動がなくても、肉体のユニークな形と声の音の中に現れる。その人が「なに」(what)であるか―その人が示したり隠したりできるその人の特質、天分、能力、欠陥―の暴露とは対照的に、その人が「何者」(who)であるかというこの暴露は、その人が言葉と行なう行為の方にすべて暗示されている。pp205-206 

この言論と活動の暴露的特質は、人びとが他人の犠牲になったり、他人に敵意をもったりする場合ではなく、他人とともにある場合、つまり純粋に人間的共同性におかれている場合、前面に出てくる。人が行為と言葉において自分自身を暴露するとき、その人はどんな正体を明らかにしているのか自分でもわからないけれども、ともかく暴露の危険を自ら進んで犯していることはまちがいない。p206

今日、英雄に欠くことのできない特質と考えられている勇気という意味は、ともかく自ら進んで活動し、語り、自身を世界の中に挿入し、自分の物語を始める自発性の中に、すでに現れている。そして、この勇気は、必ずしも、結果を自ら進んで引受けるという自発性と結びついているものではないし、それが不可欠なものでさえない。・・・この本来の意味の勇気がなかったら、活動と言論は不可能であり、したがってギリシア人の論理からいえば、自由も、まったく不可能であろう。p214

活動は常に他の活動者の間を動き、他の活動者と関係をもつ。だから活動者というのは、「行為者」であるだけでなく、同時に常に受難者でもある。行うことと被害を蒙るということは、同じ硬貨の表と裏のようなものだからである。そして、活動によって始まる物語は、活動の結果である行為と受難によって成り立っている。しかし、活動の結果には限界がない。・・・活動が人びとに向けられるものであり、それらの人びとも活動能力をもっているから、そこで起る反動は、一つの反応である以上ひ、それ自体が常に新しい活動であって、こうして、人間の間の活動と反動は、閉じられた円環の内部に留まることはけっしてなく、その影響力を自分と相手の二人だけにしっかりと限定することもできない。p217

梅田氏の『ウェブ人間論』でとりあげられていた、アーレントを長々と引用したが、総表現社会がどのような意味を持つのか考える上でアーレントの指摘を無視することはできない。こうしてブログで日々綴ることが「WHO」を晒すことであると理解するのは今の私たちにとっては容易であろう。梅田氏はウェブにより「個」が増幅、強化されるとするがこれは表現活動に伴って必然的に起ることである。と同時にアレントの述べる言論と活動に伴う暴露はウェブでの困難の根源をなすものともなる。梅田氏が信条とするオプティミズムと「新しい強さ」はアーレントの述べる「勇気」と同じものであろう。
しかし、ここで問題となるのは、この「勇気」の原動力となるもの梅田氏も斎藤氏と同様に「志」としていたが、それは何処に根源を持つのか?この点を明らかにしないのであればもし仮に両人がこれらの書籍を「啓蒙書」と位置づけるつもりがあるのであれば不十分である。すでに何らかの「志」ないしはその萌芽を持つ人びとを鼓舞し、助力することができても、迷い、懐疑のうちに沈む人たちを引き上げることはできないであろう。