過去ログ(広島のこと)

2007年8月7日の過去ログ

昨日のこと東京では対して気にならなかった。それは事実であるので書いておく。生まれて初めて広島以外の場所で8月を過ごす。離れたからわかるのだけど、私にはべったりと「ヒロシマ」が張り付いている。自己紹介の機会が増えたこともあるけど、私自身この問題にけりを着けるために歩いてきたし歩くつもりだから度々ぶつかるのだと思う。たぶん小学生のとき教師に言われた言葉を真に受けたのがすべてであると思う。将来どこに行っても広島出身であるとわかれば「ヒロシマ」について聞かれるであろう、その時のために勉強するんだと。まるで使徒である。考えてみれば洗脳と紙一重の教育だと笑えるし、どこで育ち方を間違ったか、平和運動をつぶす側に回るつもりであるから、教育というのはわかりませんね。私は平和式典が反吐が出るほどキライである。祈る人たちは日の昇らないうちから、献花と黙祷を済ましているから。そもそも高齢化して体力のない被爆者が増えているし、式典は祈る場所でも空間でもない、あれは単なるクダラナイ政治的な儀式にすぎない。ブログの感想を読んでて笑ったけれど、小学生の作文に涙したとか笑止というより失笑。あれどれだけ教員が手を入れてて、作文自体も平和学習のときに書かされた使えそうなのピックアップしてるだけなのに、どれもこれも似たり寄ったりの作文ではあろうけど、あれを子どもの総意と思われては小学生が迷惑だろう。そもそも、子どもだしにするやつにろくな奴はいない。市長のスピーチは小学生以下だし。首相はいやいや参加だし。あんなの見てなんか考えるという現状のほうが問題でしょ?違うかしら?それぐらいならずっと無関心なままのほうが激しくまし。
大体、あそこに喪服着て参加してる参列者が被爆者の全体でないことはきちんと書いておく。うちの両親は両方とも被爆二世、私は三世になる。祖母の代わりに私式典に参加できるけどしようとは思わない。祖母が一度も出席してないし、しようともしないから。
今わたし勉強サークルでアガンベンの「アウシュヴィッツ」に関する本を読んでるのだけど、収容所とその証言者についてが問題になった。それに関連して色々考えているのだけど。
修学旅行の平和学習でもかまわないし、私も小学生のとき何度もそういう機会を得たけど、そこで語られる証言と祖母含め親戚が話す証言でない証言の違いについてきちんと誰かが書かないといけない気が今すごくしてる。意図して語るひとたち、語らずしてないしは語ろうとせずに語るひとたち。被爆体験の風化と継承と言われて久しいけど、意図された語りは十分回収できてると思うけど意図されない語りって放られたままなんだよね。私は幾分かでも回収してるつもりだけど。これを話すと私の意図した語りの中に滑り込んでしまってダメになる気がすごくしてる。

  • スカーフと乙女ごころ

おばは十代のときに被爆した。うなじから肩の辺りにケロイドができて、そのあとスカーフを使ったりお化粧で隠したり色々したらしい。これが話されたのは親戚が集まったお葬式だかのお酒の席。こんなこともあったのよと思い出話の一部として話された。

  • トイレと朝礼

6日のその日にある男の子がいて、朝礼のときにおなかがすごく痛くなってトイレに駆け込んだ。ひどくおなかをくだしたらしい。彼は助かったけど、朝礼のためグランドにいる人はみんななくなった。これもお酒の席でボソッと話されたこと。
人間の生き死にはわかんないね、といともたやすく言われてすごく困った。

  • 母と葬式

父がすごく酔ったとき話したこと。父の母、祖母だけど、私が生まれる前、父が20代のときになくなったので私は知らない。祖母は出血が止まらないことが度々あってそのたびに父は会社を抜けて病院に輸血に行っていたらしい。たぶん白血病だと思う。
祖母が亡くなったとき、被爆調査のための病理解剖に協力して欲しいと言われたらしいけど、勘弁してくださいと断った。何と言うか、「勘弁してください」という父の言葉がなんともほんとに情けなくやるせなく聞こえて、なんともいえない気分になった。

小学生のころ知っている人に戦争体験を聞こうとうデリカシーもへったくれもない課題を出された。祖母と祖父に聞きに行った。なるだけ当時の楽しかった思い出を話してくれた。祖母と祖父はいわゆる二次被爆、つまり救護や看護で広島入りして被爆した人、正直その事実しか聞いてないし、あの日のことは棺おけまで持っていくつもりなんだと思う。話したくないのが事情のよく分かってない小学生の私にでさえ伝わってきた。