新スコラ学へ向けての試案

 
 本案件は私案/試案である。本案件の基本理念は次の三点である。信仰(信念)と理性と自由の三項である。これら三つの理念から必然的に引き出せる要素は愛である。そして愛は、寛容、開放性として現われる。寛容、開放性は民主主義と市民社会の基礎をなすものである。
 ここで私は、リベラルアーツ、教養教育と一般に呼ばれるものをスコラ学と教会の伝統にそって呼称することとする。
 スコラ学、このように呼ばれる学問は哀愁の伴った懐古の念を引き起こすものでは残念ながらない。この学問は、信仰心を持つもの、持たないもの双方にとって超えられるべき、捨て去られるべき、カビの生えた胡散臭い代物と見捨てられている。 
 このことは筆者をひどく落胆させた。なぜなら私は、スコラ学を学びに大学に入学したからである。筆者は入学早々次のように忠告を受けた。スコラ学に対し否定的見解を抱く教授がいるのでそれについて学びたいのであれば、中世の神学者、中世の思想、中世哲学について学びたいと言う方が良いであろうと。この神父のした忠告は善意によるものであるのは理解しているし、現在のカトリック、およびその神学においては理性よりも霊性を重要視した研究が続いていることも把握した。特に日本のカトリックにおいて。この事実はわたしを落胆させるより、わたしを終始不愉快にさせるに十分なものである。
 したがって私は次の二つのことを決意するに至った。ひとつ、与えられないのであれば自ら求めること。ふたつ、自らの信じたことについては、充分理性で吟味し、祈ったうえで躊躇なく開示すること。 
 私がこの企てに使用する方法は、主観に基づいた懐疑主義の哲学である。主に依拠する哲学はデカルトのなしたものである。しかしながら、デカルト含めあくまで他人の思弁であり、一切の思考とその過程、航跡である書かれたものはわたしに属するものである。そして、デカルトを採用する理由は、二つある。一つ目に、彼がよくスコラ学を学んでいたこと。二つ目に、彼が近代哲学の最もよき理解者であると共に、創設者であること。以上の二点である。
 また、同時に次のような意味合いも含むが、これは一般の読者には不要な些事である。彼がよき信仰者であり、神学に対して敬意と信頼を有していた点であるが、このことはわたしにとり重要な意味を持つ。しかし、今回はこのような問題にそれることは本来の目的にそぐわないため、時々、折に触れて言及するにとどめることとする。