哲学に関して

先に記したように、‘哲学’の知識を得る課程でさえ一種の哲学を含むものであることがわかったかと思います。ここで重要なのはなぜ講義をおこなう教員が例えばですが、カントをこれほど重要視しているのか、どうしてこの書籍の著書はこれほどプラトンの哲学を重要視するのかと哲学史や哲学の講義自体を材料に自ら思考することが重要ですし、哲学の講義でおこなうべきことは熱心にノートをとることではありません。
例えば、一限目にAという講義を受けたとしましょう、その講義においてはXという概念が非常に重要でありYという概念は誤ったものであると述べられていました。次に受けたBという講義では全く逆な事柄が述べられていたときあなたはどのように考えますか。一つのあり方としてはAという講義ではかくかくしかじか述べており、Bという講義では〜〜と述べていた。と、ただノートに書き記したの同様に脳に情報を加えることです。
もう一つのあり方としては、何ゆえにAとBとは違ったことが述べられているのか考えることです。
多数の学生が講義のたびに講義の色に染まるのを私は苦々しい思いで一年見てきました。それは今年に入りよりひどいものとなっています。確かに優れた教員というのは存在しますし、すばらしい講義も存在するでしょう、ですがだからと言ってその講義をうけた者が皆それらの内容を鵜呑みにしてまるで壊れたレコードのようにそれを繰り返すのではなんの意味があるのでしょうか。