よく考えるために、そしてよく書くために

先日の続きをおこないたいと思います。まずタイトルで書いたように、このエントリは「よく考えること」と「よく書くこと」に関して書かれています。というより、今からそのことに関して書いていくつもりでいます。
それではまず初めに昨日の続きからおこないましょう。昨日は、『本を読む本』を取上げ、「よく読むためには」としてエントリを書きました。どちらかと言うと、私の思索が足りず、引用ばかりが目立つエントリになってしまい残念に思いましたので、『本を読む本』で書かれていた、第三レベルの分析的読書と第四段階のシントピカルな読書を実際にやってみます。最初に注意しておくことが一点あります。これはあくまで、『本を読む本』をだしにして私の読書をしてみせるというだけの話です。
ではまず、最後から始めましょう。私の読書の悪い癖として、大して読むに値しない本は頭と尻尾だけ齧って味をみるという習慣があります。要は、題名、副題、目次、はじがきを読み、次いで作者・著者略歴、あとがき、索引、引用文献目録を読みます。興味があれば、全部頭から一度斜め読みをして、次に熟読します。熟読する際は必ず鉛筆と付箋を使います。この際は遠慮なしに本を汚します。ですから、本は借りるものではなく買うものであると考えています。また、一度熟読した本は少し間をおいて、PCのほうに引用していきます。こうしてストックをつくっておくとあとで整理する際に非常に便利です。なお、一時期wordに引用してノートを作っていましたが今はそうしていません。移転してプライベートモードにしたブログに放り込んでいます。引用が楽なのと、検索が可能であること、あとはてなの書籍の引用形式とリンクを私は評価してますので、だって他のブログサービスの書籍紹介ってしょぼいんだもの、はてなも微妙だけど、それ以上に他のブログサービスの知的水準は低い。とくに人文系は。リンクを辿ることで同じ本を読んでる人の意見を読めたり他の本を知ったりできるのでなかなかよろしいと思っています。
と、瑣末なお話は置いておいてもう少し根本的なお話に移りたいと思います。まず、なぜに本を読むのかということです。『本を読む本』では娯楽のための読書と情報得るための読書とが区別されていました。では、『本を読む本』で問題とされている読書、そして対象となる書籍はどのようなものなのでしょうか?
端的にいいますと、良書を読むことそれが読書だ、と『本を読む本』は述べているのです。では、良書はなんなのかという疑問がすぐに浮かぶはずです。昨日引用しなかった本書の最終部分でそれが述べられています。
生きることと精神の成長と題する項を著者は次のような問で始めます。「いまたったひとり無人島に流されることになって、もっていきたい本を十冊選べと言われたら、いったい何を選ぶだろうか。」著書は、この状況設定が一見現実離れをしており無意味であるかのように思われるが、「われわれはみな、多かれ少なかれ孤島に流された人間である。自分の内なる可能性をどこまで引き出し、よく生きられるかという点では、無人島にいるのと少しも変わらない」と述べ、この問の意味を「自分にとって何度も読み返したい本は何か、ということをあらためて考えさせてくれる」そして「娯楽、情報、知識から完全に隔離されたとき、人間はどういうふうに生きるものなのか、そういう状態におかれたとき、自分がどうするだろうかということをよく考えてみるきっかけにもなる」としています。
次いで、著書は、人間の精神、思考することに関して筆をすすめます。

人間の精神には一つ不思議なはたらきがある。それはどこまでも成長しつづけることである。このことは、肉体と精神汚きわだった違いである。肉体にはさまざまの限界があるが、精神には限界はない。人間の肉体は、ふつう三十歳位をピークにしだいに下降線をたどるものだが、精神は、ある年齢を境に成長が止まるということはない。老衰で脳が衰えたときはじめて、精神の活動も低下する。
精神の成長は人間の偉大な特質であり、ホモ・サピエンスと他の動物とが大きく違っているのもこの点である。動物にはこのような精神の成長はみられない。だが人間にだけ与えられたこのすぐれた精神も、筋肉と同じで、使わないと萎縮してしまうおそれがある。精神の鍛錬を怠ると、“精神萎縮”という代償が待っている。それは精神の死滅を意味する恐ろしい病である。pp253-254

われわれのまわりにあるテレビ、ラジオをはじめ、さまざまな娯楽や情報源も、すべて人為的なつっかい棒にすぎない。このような外からの刺激に反応していると、自分の精神も活動しているような錯覚におちいる。だが、外部からの刺激は麻薬と同じで、やがて効力を失い、人間の精神を麻痺させてしまうのだ。自分の中に精神的な貯えをもたなければ、知的にも、道徳的にも、精神的にも、われわれの成長は止まってしまう。そのとき、われわれの死が始まるのである。p254

積極的な読書は、それ自体価値のあるものであり、それが仕事のうえの成功につながることもあるだろう。しかしそれだけのものではない。すぐれた読書とは、われわれを励まし、どこまでも成長させてくれるものなのである。pp254-255

 ここでようやく著者が言わんとすること、そして長々とこの著作を綴った理由と目的が理解できます。つまり、人間の精神の糧となる良書、その良書とは永続性のある問に対して著作者が心を籠めた思索により構成されているものであり、読む人を励まし、問に対してよき手引きとなり、読み手の成長を助けるよき読書をするための準備を目的としてこの本、『本を読む本』は書かれたということです。