寂しさのようなもの

お昼のミサ前に少し走り書き。
twitterで愚痴っていたのだけど、大学で学問上の指導を仰げる先生がいなくて少し寂しく思っている。法哲学では、この前個人的にヨンパルト神父を訪ねてお話を伺ったし、指導を今後仰ぎたいと思うけど。なんだろう、ようは哲学の指導をしてくれる人が欲しいの。アイルランドの事例研究では小山神父に指導してもらえるから大丈夫だし。でも、神学と哲学となると指導して欲しいような先生が今いない。
研究分野を考えるとやっぱしリーゼンフーバー先生になる。別に碩学だなんだミーハーな考えではなくて、冷静に考えたら。
私が興味のあるのは、基礎学問としての哲学でしかないのは前から述べていると思う。つまり、諸学問の基礎としての哲学、第一哲学のこと。
その傾向を持つものとして、中世のスコラ学とくにトマス・アクィナス、そしてスコラ学を学び新しい学問の基礎としての哲学を求めたルネ・デカルト、次いでデカルトを見直しそこから出立したフッサール現象学
現象学に今ものすごく興味がある。最近読んだ。と言っても目を通しただけだけど、フッサールとメルロ・ポワンティにすごく興味がある。でも、なんか足りないものを感じてた。現象学と神学、つまり信仰に裏打ちされた理性の接点がはっきり見出せなかったから。
でも、昨日ようやく接点が見つかった。エディット・シュタインという人が私のやりたいこと、やるべきことの先駆者としていた。非常に喜ばしいし、それをたまたま図書館で知った瞬間飛び上がるほど嬉しかった。やるべきことの道筋は立った。だけども、この道をひとりで歩むのはあまりにも現時点の力では無謀だともよく理解してる。だから、準備のために中高のときそうであったように、対話できる相手。私よりも理性的な人格者(と、少なくとも私が認識できる人物)が必要。
そう考えたら、専門分野、つまり現象学をよく心得ていて人格者でありかつ信仰者であると考えたとき、リーゼンフーバー先生が最も適切。問題は、数多いる取り巻きを押しのけて彼のところに行かないといけない点。とっても、いやだ、そんなことするのは。
ほんと、どうしようかな。まず第一に力量不足なのでこつこつとやらないといけないことには変わりないのだけど。