よく読むためには

ustreamで話していたのですが、途中でフリーズしてしまったので、改めて文字にします。
まず以下の本について述べておきたいと思います。

本を読む本 (講談社学術文庫)

本を読む本 (講談社学術文庫)

まずはこの本がどのようなものであるが著者自身が語るところを引用しましょう。

『本を読む本』は、読むに値する良書を、知的かつ積極的に読むための規則を述べたものであります。すべての本がこの本の奨めるような読み方に値するわけではありません。厳密に申せば、それは名著といわれる本にこそふさわしい読みかたであります。そのような名著は、一回だけでなく二回あるいはそれ以上の精読に値するものです。
そのような良書のすべてとはいわぬまでも、そのほとんどが、日本で翻訳され出版されているのは幸いなことです。私の知るところでは、日本は、世界諸国の中でも、とりわけ良い書物と良い読者とを豊かにもつ国であります。また東西の文化圏のすぐれた著作が広く手に入るという意味で、ひときわ恵まれた国でもあります。さらに、人類全体を一つの文化に結びつける世界の文学を知的財産として尊重している国でもあります。
日本の読者の皆さんが、この本をただの教則本としてでなく、世界の名著を読み、考えることによって自らを教育し高めていく手引きとして、活用していただきたいと思います。(p4)

私はこの本が最近になり多くの読者を新たに得たことを知りました。このことは非常に喜ばしいことです。ですが、この書物の訴えること、つまりは先に引用した「この本をただの教則本としてでなく、世界の名著を読み、考えることによって自らを教育し高めていく手引きとして、活用していただきたい」との部分を理解できていないと感じました。web上の書評の多くは、4段階に分けられる読書法にばかり注意が注がれており、本来のこの書籍の目的と目標とから離れ、この本をただの教則本として扱ってはいないでしょうか?

本書の最後の箇所、「15 読書と精神の成長」において著者は先ほど引用した「『本を読む本』は、読むに値する良書を、知的かつ積極的に読むための規則を述べたものであります。すべての本がこの本の奨めるような読み方に値するわけではありません。厳密に申せば、それは名著といわれる本にこそふさわしい読みかたであります。そのような名著は、一回だけでなく二回あるいはそれ以上の精読に値するものです。」この点について、良書が与えてくれるもの、本のピラミッド、生きることと精神の成長という項で思索をおこなっています。

本書の冒頭で述べられた、読むに値する本、つまり良書を何故読まねばならぬのか、また良書とは何で、どのような効果を読み手に与えるのかを本書最終部で考察しています。4つの読書法などというのは所詮副次的な技術論にすぎません。このような技術は、通常の読書人であれば独力で身につけるものであり、このような技術を完全とはいかないまでも身につけぬ者は、愚者です。
著者は以下のように述べます。

すぐれた読者になるためには、本にせよ、論文にせよ、無差別に読んでいたのではいけない。楽に読める本ばかり読んでいたのでは、読者としては成長しないだろう。自分の力以上の難解な本に取り組まねばならない。こういう本こそ読者の心を広く豊かにしてくれるのである。ここrが豊かにならなければ学んだとは言えない。(pp247-248)

こういうわけで、単によく読む能力だけでなく、読書能力を向上させてくれるような本を見きわめる目を養うことが、とくに大事になってくる。…娯楽書がいけないわけではないが、そういうものは読書技術を向上させてはくれない。情報を伝えるだけの本もまた理解を深めるのに役立つとは言えない。この種の本は読者を情報通にはしてくれるが、心をほんとうに豊かにし、読者を向上させてくれはしない。読書技術の向上にも役立たない。(p248)

何度も言ったが、すぐれた読書は、自分に多くを求め積極的に努力して読むものだ。いや、むしろ、読書、とくに分析読書に値するような本は、読者に多くを求めるものである。このような本は、はじめは自分には手に負えないと思えるかもしれないが、気おくれすることはない。(p248)

こういうむずかしさは、悪い本を読むときのむずかしさとはまったく違う。悪い本は、内容をとらえたかと思うそばから指のあいだをすり抜けてしまい、とても分析に耐えるものではない。悪い本には、とらえるに値する内容などないから、分析すること自体が無駄なのである。(p249)

すぐれた書物ほど、読者の努力に応えてくれる。むずかしいすぐれた本は読書術を進歩させてくれ、世界や読者自身について多くを教えてくれるからである。単に知識をふやすだけの、情報を伝える本とは違って、読者にとってむずかしいすぐれた本は、永遠の真実を深く認識できるようになるという意味で読者を賢くしてくれる。(p249)

人生には一朝一夕には解決できない永遠の問題もいくつかある。男と女、親と子、人間と神というような、人間と人間、または外界との関係についての問題である。また科学や哲学には自然とその法則、また存在や生成の問題がある。すぐれた書物は、このような永遠の問題を考えるときの良い手引きとなるものである。それは、こういう問題に対する深い思索によって支えられているからである。pp249-250

良書が与えてくれるもの、と題した項で著者は上記のように述べました。ここで述べられているのは、良書が我々に与えてくれるのは、彼らの見ようと欲した真理への道筋、その足跡だということです。しかし、ここで注意しないとならないのは、それは決して真理ではないことです。引用箇所で「永遠の問題を考えるときの良い手引きとなる」と述べているようにあくまで良書は助け、山を登る際のヘルパー、案内人にすぎません。山の頂上に立つためには自らが足を使い、いっぽ、いっぽ歩まねばなりません。

続いて著者は、本のピラミッドの冒頭で次のように述べます。

西欧に限っても、これまでに出版された本の和は数百万冊に達する。だが、その大部分が、読書の技術を磨くのにふさわしい本とは言えない。…つまり大部分の本は娯楽または情報のための本である。娯楽や情報もけっこうだが、ただこの種の書物は、何かを教えてくれるものではないから、拾い読みだけで十分である。(p250)

著者は分析読書に値する良書がいかに少ないかをここで述べています。

人間の永遠の問題に関する重要な洞察を与えてくれる本である。おそらく、こういう本は、全部合わせても二、三千冊にも満たないだろう。こういうものこそ、読者に多くを求める本で、一度は分析読書を試みるに値するものである。読書技術を心得ていれば、一度熟読するだけで、その本が与えてくれるものを残らず吸収することもできるだおる。こういう場合は再読の必要はないから、読書を終えて本棚におさめておけばよいわけである。(p250)

再読の必要がないということは、本を読んでいるときの感じでわかるものだ。その本を読むことによって精神が向上し、理解が深まるにつれて、その本から吸収するものはもうないということが、勘でわかるのである。
読むに値する数千冊のうち、本当に分析読書に値する正真正銘の良書となると、100冊にも満たないだろう。最高の読書術をしても、完全にも理解で気ないような本である。精一杯取り組んでも、何かまだ自分に読みとることのできなかったものが残っているような気がする本である。このときも、まだここでは、気がするとしか言いようがない。何かあるらしいという気がするだけなのである。そして、そのことがいつまでも頭のどこかにひっかかって、もう一度読み直したとき不思議なことに気づくのである。
二流の本は、再読したとき、奇妙に色あせてみえるものである。それは、読者の方がいつの間にか成長し、本の背丈を追いこしてしまったのである。精神が啓発され理解が深まったのである。変わったのは本ではなく、読者の方である。本とこういう再会をすると、失望を味わうのはやむを得ない。
もっとすぐれた本の場合は、再会したとき、本もまた読者とともに成長したようにみえるものだ。読者は目には気づかなかった、まったく新しい事実を数多く発見する。これは最初の読み方が悪かったのではなく、最初に見すごしていた別の真実が見えてきたのである。最初の読書で発見した事実は、読み返しても、やはり真実であることに変わりはない。
本が読者とともに成長するなどということは、もちろんあり得ないことである。本というものはいったん書いて出版されてしまえば、変わることはない。しかし読者の理解を上回るすぐれた本は、読者にはなかなか乗りこえることができないものであり、またそういう本には、読者に応じた読み方というのがある。したがって、再読によって読みが深まることもあり得るのである。本が読者をそこまで引き上げたと言ってもよいだろう。すぐれた本には賢くなった読者をさらに向上させるだけのものがるから、おそらく読者は一生のあいだ、その本を読むことによって成長していくことになるだろう。
だが、さきにも述べたように、読者をどこまでも成長させてくれる本は、それほど多いものではない。せいぜい100冊にも満たないだろう。人によっては、そういうものは、もっと限られた少数の本になるだろう。たとえば、再読の必要もないほどニュートンに精通しているか、あるいは逆に、数学的なものの考えかたにあまり関心がなければ、ニュートンよりはシェイクスピアの方に心ひかれるだろう。しかし、数学的なものの考えかたに関心があるなら、シェイクスピアではなく、ニュートンがその読者の座右の書に加えられるだろう。pp251-252

長々と引用しましたが、私は筆者の問題意識の核心をここに見ました。要するに勘です、勘。ここまでの長い長い前振りはこの勘を説明するための屁理屈にすぎません。正直な話をすると私も上記の経験をしていますし、その過程で著者が述べる読書法を自力で身につけました。必要な方法は、一には著者が永遠の問題と述べるところの問を自ら立て自らが思索すること、次いで自らの問に近しいであろう古典的名著を読み込み、問を立て続けること。二、その問や読んだ書籍について個人的に話すことのできる学識豊かな人物を見つけ、その人と真摯に対話すること。これらのことができればおのずから、この書籍で書かれた能力は身につきます。この学問的な修練は中学二年生を過ぎた辺りから皆おこなうことができます。なぜならこの程度の年齢になれば皆思索する主体として自律し始めるからです。不幸にして、このような機会に恵まれなかったとしても、遅すぎるというようなことは、私はないと考えます。
一つだけ、警告することがあるとするならば、早い時期から自らの問を持ち、書籍を読み、他者と問について対話した人と自らを比べぬことです。