迷える羊-ストレイーシープの問題

 愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。*1
霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。*2
 

  • はじめに

数日前に参加した黙想会で心に止まった事柄を中心に思索をいくらかおこないます。まず初めに『黙想会』という聞きなれない言葉に説明をほどこすべきでしょう。以下に岩波キリスト教辞典*3よりの引用です。    

黙想会
日常生活から別の場所に退いて一定期間黙想など種々の祈りの時を過ごすこと。通常祈りの施設で数日ないし数週間を過ごす。古代教会からこのような習慣があったが、16世紀イエズス会によって『霊操』に基づく系統的な黙想会が始められた。
一部抜粋(p.1112「黙想会」より)

私が今回参加したのは一泊二日のとても短いものでした。具体的には、黙想の家*4に行き、そこで神父様の指導を数名で受け、その後各人が祈り、食事と指導を何度か挟み、最後にミサに与るというものでした。

黙想
黙想は沈黙のうちに、信仰の真理、聖書の語句やキリストの生涯の実績などに心を向け、知性・記憶・意思・想像力・情緒などあらゆる心的機能を動員してその内容や秘儀(神秘)に迫り、とどまり、味わい、究め、その中へと入りこみ、こうして見出した神的価値を自分のものとしていく。このような黙想の祈りは信仰の内的理解や神への敬虔を深める。
一部抜粋(p1111「黙想」より)

ここでは小難しく書いてありますが、端的に言えば、万物の創り主である父なる神、そして使わされた救い主である子なる神、聖霊の働きを味わい神の愛を知り、それに賛美と感謝を沈黙の中でささげることです。
黙想は、他の行いつまり隣人愛から導き出される慈愛と慈善の行為と比べると静的かもしれませんが、実際はとても動的なものです。そして、隣人愛、こればかりが外に表れるのですが、神が愛したがごとく汝の隣人を愛せと述べられているように隣人愛は神の愛から導き出されるものです。
私はここで私の祈りについて、つまりコリントの信徒への手紙で述べられている異言、神に向っての語りについて書くのではありません。私は当然、人に向って書くのです。

  • 幾つかの困った事柄と危機感について

 私は亡霊が徘徊し始めていること、そしてその亡霊のもたらす恐怖が再び社会に悪影響を及ぼすのではないかと心配しています。その亡霊とは何か?共産主義という名の亡霊です。*5 昨今書店においてはプロレタリア文学の『蟹工船』(青空文庫http://www.aozora.gr.jp/cards/000156/card1465.html)が平に積まれています。*6
 問題としたいのは、教会がこれらの若者と社会に対して多くの点で貢献できていないことです。そして、私が最も恐れるのは教会がこれらの問題に関与しなかったがために事態が深刻化し、問題に直面せざるえなくなったとき準備不足のため教会自体が混乱の坩堝の中で傷ついてしまうことです。
 現在でさえ準備が不十分なのです。今から準備をし始めなくて何時始めればよいでしょうか?
 私がまず初めに確認しておきたいのは、聖書に記されているように、隣人愛は神の愛から導かれるもの、そして信じるものはキリストに倣うものだということです。そして、聖書と同じく牧者である聖ペトロを頂く教会、つまり使徒に始まり教父により研磨され多くの教会博士により深められ広げられた信仰の遺産の相続者であり管理者である教会に信を置き、属するものでもあります。何時いかなる時でも何をするにあたっても神の愛を忘れてはならないということです。
 私は次の事柄を恐れます。信じるものがただ単に善良で正しい人になってしまうことです。これに対して多くの人が疑問を感じるでしょう。逆に悪徳を働く悪しき人に思われるべきだなどと言っているのではありません。私はただ単に道徳的であるというだけでは足りないと言いたいのです。このことは次の一般的な傾向、それは私も感じたこと、から問題に感じる点です。私は、学校において倫理の授業の時間、そしてより長い時間をかけて神父様と聖書を読み、感じた疑問について一緒に話してきました。そこで感じた疑問というのは多くの人が感じることの一部を成しているものでもあると思います。
 多くの人が感じる疑問、それは聖書に記されている(と思われる)不合理な奇跡の数々とゴールデンルールや右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せなどの道徳律です。

  • 三冊の聖書

 少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。
 主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と答えて、エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました」と言った。しかし、エリが「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言ったので、サムエルは戻って寝た。
 主は再びサムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、「わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ」と言った。サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話ください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。
 主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話ください。僕は聞いております。
 主はサムエルに言われた。*7

*1:コリント一 14.1

*2:コリント一 14.15

*3:岩波キリスト教辞典

*4:イエズス会無原罪聖母修道院(東京黙想の家)

*5:マルクス・エンゲルス著『共産党宣言

*6:毎日新聞よりhttp://mainichi.jp/enta/book/news/20080514dde018040019000c.html

*7:サムエル記上 3.1,4-11