聖と俗に関して

 id:antonianさんが紹介されている『チェーザレ』私も既に刊行されている5巻まで手にしているのですが、作中での時代考察に関しては私は致し方がないのではないかと思う。多めに見るとかそう言うのではなく学術論文でも酷いのがごろごろしてるのにいちいちフィクションにまで怒る気力がわかないという意味で。酷いのは神父と牧師の区別もついてなかったり、もう嗤うしかない。その人物はなんと博士論文をフランスの現代思想で書いた上、その博士論文中にカトリックの信仰を持ちかつその論稿にミサだなんだとカトリックの普遍性が重要な意味を持つ論稿を引用して論じてるわけですが、気になったので引用先の書籍を日本語に訳されてるものはできうる限り購入して目を通したけど・・・よく博論として受理されたよな、というのが正直な感想。しかもそれがサントリーの学術賞取るんだから日本の知識人の教養なんてこんなもん。
 むしろ私が腹立たしいのは信仰を持たない人の無理解よりも信仰を持ちかつ学識のある立場にある(特に大学の研究者)たちの無能さと怠慢に対してほんとに我慢がならない。特に60年代以降のカトリック知識人の怠慢と無能さは目に余るものがある。
 槍玉に挙げるなら岩下神父が大正に始めた論壇誌カトリック』を『世紀』として引き継いでいながら現在休刊状態にしてる。その『世紀』ですら図書館でバックナンバーに目を通して掲載論稿を読む限り論壇誌として読むに耐えるのはぎりぎり60年代まで、あとはほんと酷い。90年代なんてこれは婦人公論か?といいたくなるような内容のなさ。とても教会の外の知識人一般に対峙するための論壇誌ではない。そのガタガタの論壇誌すら現在では発行されてない。他の雑誌?そもそも誰が読むんだ。読んでるのは教会のおじちゃん、おばちゃんばっかしじゃねーか。
 以前のエントリでやる気ないならイエズス会は大学売り払ってスペインにでも帰れと書いたけどこれは私の本心から出た言葉と受け取っていただいてかまわない。遠慮なく書くのだけど、60年代以降、いやむしろ第二バチカン公会議以降において、日本のカトリック知識人として広く世に自らの言論を通してカトリック教会、信仰、カトリシズムについて世に訴えた人物っていますか?いないでしょう。
 私はこの責任、つまり知識、学問を通して教会の立場を擁護し、また広める役割を負っているのは上智大学であると考えるし、その責任を果せないなら荷物をまとめてスペインに失せろ。インカルチュレーションと言うくせに未だに逆オリエンタリズム全開のカルチャルスタディーズだし。ほんと禅とか親鸞とか、もうね、アホカトバカかと。日本人のうちどれだけが日本の伝統的な霊性になじんでるかちったー考えろや馬鹿。
 問題は日本の霊性すら宗教的無関心、世俗主義に押し流されてるということでしょう。極東の島国は人間に残されたエデンの園ではけしてない。
 神学者カトリック関係の出版物の不愉快な点は常に教会と言う狭い中の人を読者としている点。お前ら自分の神学なり、書き物なりで自分とこの中等教育課程の学生を相手にしてみろ、それこそサレジオでも聖光でも栄光でもラサールでもどこでもいい。ほんといっぺん出直しで神学者はこれらの小生意気で知的な学生相手にいかに神や信仰、教会について語りうるか実地でやってくればよいんじゃないの。いかに自らのひ弱な神学がいかに世俗主義虚無主義に無力かがわかるだろうけど。
 神について語りうるかすら厳しく問われているのに、すぐに霊性だ、愛だ、なんだとゆるい言葉に逃げるか、神の啓示であり恩寵である聖書、つまりこれは仮に神を信じ得ない人がいるとするならば彼からすれば所詮出来損ないのファンタジー小説にすぎないものに退却して信じる人にしか通じない言葉(しばしば信じている人間にすら理解困難な)で語る。やる気あんの?宣教が必要だなんだと『福音宣教』やら何やらでは深刻そうな顔して語ってるけど。神学者はまぁ、神の啓示と恩寵が学問の出立点であるから仕方がないとしても、神を信じる一人の被造物、キリストに倣って福音を告げ知らせる者として出立するとき、司祭にしろ神学者にしろシスターにしろブラザーにしろ結局既に信じてる人、信じようとしつつある人ばかり相手にして・・・それって宣教なのか、そもそも。
 で、信じない人に対しての宣教はそれこそ信徒使徒職に負うところ大であると言う物言いや神学理解には私も同意する。だったら変な形で俗に聖職者は出てくるなと言いたい。主婦であろうと、学生であろうと、それがどのような世俗の職業に就くものであろうと、聖職者としての叙階の秘跡を受けない信じるものは皆信徒使徒職を負って日々俗で生活している。その俗にいる人間がそれこそ周りとの理解の差に、その差が信仰故のものであるなら、その際の苦労に対しての助けと支えと癒しを与えるのを叙階を受けた聖職者の役割ではないの。むしろ日々の生活で人ではなく神に向き合うことに疎かになりがちな人たちの手助けをするのが聖なる領域に属する人間のすることでは。端的に言って神を信じることができるのか、そもそも神はいるのかいないのかが問われる世にあって、信じそれに全身全霊に付き従い誓いを立て教会から特別の秘跡を受ける聖職者は存在だけで十分な証であるし、なんでそんなに世俗の良識と言う他者のしかも信じない人の視点を内面化しそれに振り回されるの?理解ができない。
 仮に何かの政治的な主張を支持しうる場合でもそれは神によって、学問的に仮に主張するならそれは世俗の良識やリベラリズムから導かれるものではなく教義から演繹的に思考した上で主張されるべきものでは。
 具体例をあげると教育基本法の改正反対、神学者ならマリタンを代表としたカトリシズムの人格主義と田中耕太郎の自然法思想から反対を主張すべきだったのにどれだけのカトリック関係者(反対運動に参加した)がこの視点から改正反対を訴えて論陣を張って、本来の教育基本法や教育の役割や意義を啓蒙した?
 私は気になったからそれこそ『世紀』や『カトリック』、『カトリック教育研究』やら論文検索サービス使って検索してみたけど、今まで人格主義や自然法の思想を擁護し広めようとしてこなかった事実を知って心底落胆した。
 でも教育基本法に関しては心底皮肉だし笑える話だと思う。最保守だった田中耕太郎が『教育基本法の理論』の中で基本法の人格主義をコミュニストによる教育への政治の介入とその唯物主義から守ろうとしており、行き過ぎた自由の咎を教育により是正することを主張していたのに、時代が変わればその法律を改正しようとするのは保守派で守ろうとするのは田中に批判されたコミュニストリベラリスト。もう笑うしかない。
 田中の議論を引きながら公共性への配慮など改正派の論拠となった主張に対して現行法で十分対応できると反論をすることができたし、それをしなければならなかったのは間違いなく田中の人格理解、カトリシズムに一番近かったはずのカトリック神学者や知識人のはずなのにこの体たらく。
 憲法改正はさせないとか言って挙句広島から東京の幕張まで歩いて平和アピールとかしたそうですね。広島出身者として言わしてもらいますが、お前らは馬鹿かと、もし仮にまた敗北したくなければ憲法制定時の田中の行動や戦後すぐの『カトリック研究』や『世紀』『ソフィア』に乗っている憲法に関しての議論と擁護の論陣を掘り起こしながら反論のための準備をすることではないの。ほんとやる気が無いならあなたがたのその研究費を私によこせ、論文のコピー代すらこと欠いてるというのに。
 私は現教皇が大学で行った講義で述べたように理性を超えたもの神に対しても勇気をもって拡張することそしてそれにより知りえた事柄から道徳や法、社会に対しての新たな視座をえること、これがカトリックの知識人に昔も今も科されている義務であると考えるのだけど。
 端的に言って、岩下や吉満、田中、その他にも大正期から戦後直後に論陣を張っていた人たちの言説は今でも十分参考になる視座だし、その問題意識は今でも通じるものだと私は読んでいて感じる。それに引き換え、うちの教授陣の論稿はどれもこれも全く役に立たない。愚図そのもの。
 私はアウグスティヌスだろうとトマス・アクィナスだろうとマリタンだろうとラグランジェだろうと、カール・アダムだろうとラッチンガーだろうと、それが第二バチカン公会議の前だろうと、どんな公会議の前後だろうと普遍の教会に結ばれたものなら私も教会に結ばれたものとして信仰の遺産を引き継ぐ義務があると考える。ましてや学問をしようと決意したのだし、これだけ批判したのだから私は私自身の批判に耐える言説を紡がないとならない。
 私は別に司教やその他が政治的発言をしようと、それこそ教皇が世俗の大統領を批判しようと別になんとも思わない。ただそれが教義から演繹されえないものだとそれはそもそも許しがたいと考えるし、神学を治めた人間がそのように思考しうることが理解できない。
 別に日本の司教団の一部がリベラルな発言をすること自体はそれが教義から演繹されたものならまぁ理解しうる。信徒が司教の発言に何らかの服従をしなければならないかどうかはそれこそ教会法の問題になるし、実質的な問題なのでさておくとしても、主張の整合性として、自ら主張したならそれが社会や道徳、法や政治に関係する場合は根拠となるカトリックの思想、主には自然法に当然なるだろうけどを出さなければだめだと言いたい。
 スコラ的な思弁や自然法に心得が無いなら黙るべきだ。この点も非常に腹立たしいのだけど最近の神学ではこれらのスコラ的な思弁法を重要視しないし、司教が仮に政治的なことに積極的に関わるなら当然必要な技量である修辞や弁論術も当然教授されない。それこそコミックで描かれているチェーザレたちの学ぶ大学の教育内容が仮に世俗に積極的に司祭職が関わるな必要とされる。なのにやってない。だったら出てくるな。 
 良きにしろ悪しきにしろ、それが21世紀だろうと16世紀だろうと人が集まれば規則が生まれる。ましてや何らかの目的をもって組織が大きくなるなら当然責任をそれはつまり権力を持って指導する人たちが出てくる。その役割は16世紀だろうと第二バチカン公会議以降の21世紀の今でも変わらない。だから私は神学部に来て非常に驚いた。私が想定していた神学の講義内容はいくらか近代化したり変化を経たとしてもチェーザレたちの学んでいた学問とそれ程変わっていないと考えていたし、また変わる必要もないし、変わるべきのないものだとも考えていたし、また今もそう考えている。
 だけれでも見るも無残だ。私は60年代から80年代までに学んだ教授陣のリベラリズムの盲目的な信仰が非常に鼻につくし、80年代以降の教授の知的軽薄さは反吐が出るほど同様にイヤだ。これらに共通するのは古典を尊重しないし、古典をいかに今に生かすかと言う視点を学問に欠いている点。また自らが20だそこらの若い頃うけた知的な影響から一向に不幸にしても抜け出さずにものを見て考える点。
 
 私はギュングとラーナーは退ける、ラティンガーとコンガールは採用するし引き継ぐ。岩下の始めた知識人においてのカトリシズムの啓蒙と理解の浸透を、つまりカトリックに市民権を得さすという任務を私も私の学問上の任務として引き継ぐ。キリスト教ヒューマニズムを退ける、カトリシズムを採用する。相対主義も包括主義も退ける、普遍主義を採用する。形而上学を含み得ない哲学を退ける、スコラ学を採用する。