遠藤周作『沈黙』昭和41年三月 新潮社 (注:文庫版ではなく初期の単行本、36版)

 あとがき
数年前、長崎で見た摩滅した一つの踏絵―そこには黒い足指の痕も残っていた―がながい間、心から離れず、それを踏んだ者の姿が入院中、私のなかで生きはじめていった。そして昨年一月からこの小説にとりかかった。ロドリゴの最後の信仰はプロテスタンティズムに近いと思われるが、しかしこれは私の今の立場である。それによって受ける神学的な批判ももちろん承知しているが、どうにも仕方がない。
 次にこの小説のモデルである岡本三右衛門について少し書いておく。本文の岡田三衛門ことロドリゴとちがって彼は(本名、ジョゼッペ・キャラ)シシリヤに生れ、フェレイラ神父を求めて一六四三年六月二十七日、筑前大島に上陸し、潜伏布教を試みたが、ただちに捕縛され、長崎奉行所から江戸小石川牢獄に送られた。ここで井上筑後守の訊問と「穴吊り」の刑をうけて棄教、日本婦人を妻として切支丹屋敷に住み、一六八五年八十四歳にて死んだ。彼と共に布教に渡日したアロヨ、カッソラの二人も皆、拷問の後、転んでいる。小説中のロドリゴやガルペと史実のキャラとの違いのためにこの点を指摘しておく。
 また第九章中の「長崎出島オランダ商館員ヨナセンの日記」は村上博士訳の『オランダ商館日記』から、「切支丹屋敷役人日記」は『続々群書類従』中の査祅余禄から抜萃し、書きなおしたことを付記しておく。
 昭和四十一年二月二十日 (pp256-257)

1 セバスチャン・ロドリゴの書簡

「のみならず……」彼は自分に言いきかせるように、「日本には今、基督教徒にとって困った人物が出現している。彼の名はイノウエと言う」
 イノウエという名を我々が耳にしたのはこの時が始めてです。ヴァリニャーノ師はこのイノウエにくらべれば、さきに長崎奉行として多くの切支丹を虐殺したタケナカなどはたんに凶暴で無智な人間にすぎないと言われました。p15

九州の日本人信徒が最後に送ってきた通信から、ヴァリニャーノ師はこの奉行について多少の知識を持っていました。それによるとイノウエは島原の内乱以後、基督教弾圧の事実上の指導者となったのですが、前任者のタケナカとは全く異なった蛇のような狡猾さで、巧みな方法を駆使し、それまでは拷問や脅しにもひるまなかった信徒たちを、次々と棄教させているのだそうです。
「悲しむべきことに」とヴァリニャーノ師は言われました。「彼は、かつての我々と同じ宗教に帰依し、洗礼まで受けた男なのだ」pp15-16

 3 セバスチャン・ロドリゴの書簡

もう一つ注意しなければならないことは、トモギ村の連中もそうでしたがここの百姓たちも私にしきりに小さな十字架やメダイや聖画を持っていないかとせがむことです。そうした物は船の中にみな置いてきてしまったと言うと非常に悲しそうな顔をするのです。私は彼等のために自分の持っていたロザリオの一つ一つの粒をほぐしてやらねばならなかったのです。こうしたものを日本の信徒が崇敬するのは悪いことではありませんが、しかしなにか変な不安が起こってきます。彼等はなにかを間違っているのではないでしょうか。p56

 4 セバスチャン・ロドリゴの書簡

「パードレ、わしらは踏絵を踏まさるとです」モキチはうつむいて自分自身に言いきかせるように呟きました。「足ばかけんやったら、わしらだけじゃなく、村の衆みんなが同じ取調べば受けんならんごとなる。ああ、わしら、どげんしたらよかとだ」
 憐憫の情が胸を突きあげ、思わず私はおそらくあなたたちなら決して口にしない返事を言ってしまった。かつて雲仙の迫害でガブリエル師は日本人から踏絵をつきつけられた時、「それを踏むよりはこの足を切った方がましだ」と言われた話が頭をかすめました。あまたの日本人の信者とパードレが同じ気持で自分の足の前に差しだされた聖像画にむきあったことを知っていました。しかしそれをどうしてこの可哀想な三人に要求することができたでしょうか。
「踏んでもいい、踏んでもいい」
そう叫んだあと、私は自分が司祭として口に出してはならぬことを言ったことに気がつきました。ガルペが咎めるように私を見つめていました。
キチジローはまだ泪ぐんでいました。
「なんのため、こげん責苦ばデウスさまは与えられるとか。パードレ、わしれはなんにも悪いことばしとらんとに」
私たちは黙っていました。モキチとイチゾウも黙ったまま虚空の一点を見つめていました。
我々はここで声をそろえて最後の祈りを彼等のために唱えました。祈りがすむと三人は山をおりて行きました。霧の中に消えていくその姿を私とガルペはいつまでも凝視していますたが、今にして思えば、これがモキチとイチゾウを見た最後だったのです。pp68-69