中等教育課程における哲学カリキュラムの作成に関して

 上記のように罵声をあびせても仕方がないので、地道に小さなことからやっていくほかない。私は上智含め日本の高等教育の課程には一切期待もしていなければ、ここで奉職したいとか全く考えられないので、大学が、上智を含め全部潰れようが正直な話どうでもよい。というかむしろ、潰れてしまえとすら考える。唯一期待が持てるのが、中等教育課程の抜本的な改革である。まず初めに日本の教育課程に対しての私の見解を大まかに披露する必要があると思う。
 まず、初等教育の課程、6年に関してであるがそれほど問題があるとは思えない。特に大きな変化を必要としてはいないし、諸外国に比べ見劣りする点があるとも思われない。
 問題は中等教育である。以後中等教育前期(三年)後期五年と区別することとする。中等教育後期課程を5年としたが、これは学制の改革を目指したものではない。現在の高等学校での3年と大学での2年間の教育を考えている。後に詳しく論ずるが、後期課程5年のうち最後の2年は生徒の興味関心に沿って細分化するため、現在の大学においてのカリキュラムで問題があるとは考えない。
 なお、私が主に念頭において議論するのは一般的に普通科と呼ばれる教育についてであるが、これは商業科・工業科など中等教育後期以降の課程においての専門的な方向への進学を一切考慮に入れないものではない。
 私の目的は学校制度のゆるやかな複線化を指向するものである。幾度、中等教育後期課程における普通科進学の増加、また大学への研究志望でない進学があたり前になっている状況を好ましくないと考えている。しかしながら、このような学校制度の複線化が真理の探究と受容という万人に開かれた扉を閉じるものではないし、またあってもならいと考える。この点に関してはどの学制においても共通の中等教育前期課程、及び市民大学、および生涯学習に関して論じる際に詳しく見ることとする。

  • 1 教育の目的

まず第一に教育の目的を明らかにしなければならない。様々なそして瑣末な目的が度々訴えられ、議論されてきたがそれらの議論、目的を包括するものとして「人格の完成」があげられる。人格の完成の意味するところ、またその必要性に関してカトリックの教えを受け入れるものに対して説明は不要であろうと言いたいところであるが、カトリックのしかも神学者ですら、人格概念の指すところ、またその完成がどのようなものであると明瞭に把握しえていないようである。そのため、カトリックの信仰を解するものでさえこのような有様であるのだから、基本法制定の際から不明瞭であるとの議論が起こった人格の完成に関してはいくらかの説明、及び啓蒙が今現在“でも”必要であると考える。

    • 普遍主義と包括主義との差異に及んで

まず初めにこの期に及んで教育基本法に関しての議論を行うのかその旨を説明する。第一には中等教育課程における倫理、宗教教育のカリキュラムを作成するに当たり、学制含めの議論が当然必要とされるからである。第二に終始誤謬にとどまる、自由主義リベラリズム)及び唯物主義(コミュニズム)に対し哲学教育により明瞭な反駁を指向するためである。なお私が終始不愉快に感じる現代神学の大きな基礎となっているのが上記二つの不愉快な誤謬である。第三に教会内での具体的な活動、特に社会司牧に関してであるが、教育基本法の改正反対をはじめ非常に近い位置から見させていただいたが、上記の現代神学特有の誤謬ゆえに失敗をしていると私は考える。このような失敗、失態を見すごすわけにはいかないと考えるに至った。教育基本法に関しては十分に資料を集め、熟考した上で先生方、司祭方の方針が明確に誤っていると判断するに至ったのでここで、つまり公の場で発言することとした。なお私の議論には終始不備があるとは思うが、私の述べるところに理がないとは考えない。また、このような誤謬にとどまり続け活動するなら、先生方、また司祭の一部が重要と考える憲法の議論において再度の醜態を晒すであろうと考えるので教育基本に関しての失敗の原因について真摯な議論をする必要があると考える。
まず私のとる立場はカトリシズム、つまり普遍主義によるものです。本来このような宣言は教会の外に対してのみ行う必要のあるものでしたが、現在では教会の中に対しても行う必要が出てきてしまった言葉です。なお本件について私が参照するのはジャック・マリタンによる議論、及びそれを引き継いだ田中耕太郎の自然法理解に沿うものであると予め明記しておきます。ご存知かとは思いますが私が採用するのはトマス主義の神学であり、哲学です。あなたがたの捨て置いたスコラ学を私は採用します。なお、私は本日をもちまして新たな役割に従事することとします。以前から私は公務員として平和の道具としての使命を全うすることを念頭においていました。そのために必要な学識を得るために、具体的には私がこれから作成するカリキュラム、神学部で学びたいと考えました。無論その目論見は入学数日で打ち砕かれるわけですが。なおそうであっても出来うる限りのものを学んで本来の役割を果そうと一年ほど苦闘しましたが、私には二つの役割をこなせるほどの器用さも、器量もないのですからどちらか一方に絞らざる得なくなりました。また、他の人からも私の必要としているものが必要と訴えられるに及び私の役割を変更することとしました。
私の行うべきことはあなたがたのために弔辞を読み上げ、葬送を取り仕切ることです。もし仮にあなたがたの思弁に見るべき点があるとするならば、つまりそれは早すぎる埋葬だったわけですが、私があなたがたの捨て置いたものを拾い上げたように、他の人が将来拾い上げてくれるでしょう。私はあなたがたの思弁を一切引き継ぐつもりはありません。あなたがたは反面教師としては非常に優秀であるといえるでしょう。

**いまだ書きかけ