プロテスタントについて

 一昨年の暮れ、ようするに私が大学一年生だったころに、中国のキリスト教についての講演会がありそれに出席した。
 

この書籍の出版記念ということであった。著者の薜恩峰氏の講演を聴いたのですが、なかなか面白かった。図々しくも講演の最後に二、三質問した上にその後の懇親会にまでちゃっかり参加してご馳走になりました。
 懇親会の席で、某先生が最近顔を見せないけどどうしているのかと聞かれ、大学の雑事でお忙しいようだと答えておきました。ちなみにカトリックの側では上野教会に窓口があり活動していることやらについて知ってはいるのですが。
 懇親会ではいい子にしていたのですが、同席していた新教出版(プロテスタントの出版社)で働いてる方に声をかけられてなぜか高田の馬場で二次会・・・なかなか面白い話ができてよかった。
 そんで、勉強会に誘われたのだけど、結局忙しくて一度も参加できなかった。勉強会で読んでると言ってた本はヒックの宗教多元主義の本と禅キリスト教の本・・・後日、図書館で読んでみたのだけど、なんと言うか、私の嫌いなタイプの神学ではある。
 なんと言うか、何が言いたいのかというと、カトリックカトリックの中で色々なようにプロテスタントプロテスタントのなかで色々だということ。あと、考え方が嫌いでもその人を嫌う必要はないと言う事。ただ意見が違うときはそれをはっきりと誠実に述べる必要はあると思う。
 日本人ってほんと奥ゆかしさが美点というか、美徳というか、言う事ははっきり言って、会議なり何なりが終わったら、切り替えて楽しくお酒でも飲めばいいのにと思う。プロテスタントだからとか、カトリックだからってラベレージしてぐちゅぐちゅ批判するのは私はなんか嫌い。言うんなら言うんで、ルターの奴隷意志説はおかしいだの、カルヴァンの予定説はないだろ、とか何というかなるべく切り分けしてから批判すべきでは。批判するのであれば。

 どうでもよい付けたし、プロテスタントについて学ぶのであれば『魂の配慮』が手軽でよいと思う。

魂への配慮の歴史 (6)

魂への配慮の歴史 (6)

更なる追記

 プロテスタントと括られる人たち(思想家?)について、ウェスレーは好ましい、ルターは苦笑を禁じえない、カルヴァンは何度読んでも理解できない。カルヴァンの『キリスト教要綱』は挑戦してみたけど、ほんとよくわかんない。批判する、しない以前の問題として。あと、私は最近のプロテスタント神学者はあんま好きじゃない。特に聖書学関係。手にとって読んでみてはみたけど、興味がまったくわかない。(大学一年のときに乱読した一部なので今読めばまた違う“かも”しれない)

第一題 第二段落から

 ロックは、自然法の存在の議論に入る前に、それ(つまり道徳律あるいは自然法)がどのように呼ばれているかしめす必要があるとして以下の例をあげる。

 まず第一に、古代の哲学者(ストア派)が考えたように、『道徳的な善または美徳にひとしいもの p139』であり、セネカの述べるように『人間がそれをもって満足すべしとされた唯一善、そして悪徳に溺れた人々でさえ認めざるをえず、それを避けながらもそれを肯定せざるをえなかったほど、高い威厳をもち栄光を備えたあの唯一の善 p139』をこの法則にひとしいものとしてよいであろうとロックは述べる。

 続いて、ロックはこの法則が『正しい理性 p139』という呼び名を持つと述べる。ここでロックの述べる理性とは、『人間であるかぎりすべての人がもっていると主張するもので p139』あり、『それぞれにみずからの学説の土台としているもの p139』であるものの、『思索を結びつけ証明をみちびきだす悟性の能力という意味でいっているのではなく、あらゆる美徳と道徳の形成にひつようなべてのものの源泉となるある一定の行為原則 p139』という意味で述べている。
 
そして最後に、ロックは多くの人たちが『自然法』という呼び方によって次のような法を考えていると述べる。

 

すべての人が自然によってうえつけられた光だけによって見出し、すべての点でそれに服従し、その義務の原則の前提となると考えられているものであり、これはストア学派の人々がしばしば強調したところの、自然に従った生き方なのである p140

 ここで述べられる道徳律はストア派に大きく影響されたものである。これらの議論がどのように第一段落の神理解と結びつくのが以下における問題である。

以下第三段落

 このように述べられる自然法とはつまるところ
 

自然の光によって見出される神の意志の命令であり、何が理性的な自然に合致するか、また合致しないかをしめし、それらを命じたり禁止したりするものである p140

ただここで述べる自然法自然権と区別される必要があるとロックは述べる。

何故なら、権利とはわれわれがある物を自由に使用しうるという事実にもとづくものであり、これに対して法とはある行為を命じたり禁じたりするものであるからである p140

 理性の命令とも言われるがこの理解はやや不正確であるように思われるとロックは述べる。

 何故なら理性は、この自然法を確立し宣言するものであるよりはむしろ、至高の力によってさだめられわれわれの心にうえつけられた法を、さがしもとめ発見するものだからである。われわれが至高の立法者の権威をおかし、理性がたんに探求しうけいれたにすぎない法を理性がつくったものだとするのでないかぎり、理性はこの法の立法者ではなく解読者たるにとどまるのだし、また事実、理性はわれわれの精神の能力であり、われわれの一部分にすぎないのだから、われわれに法を与えることはできないのである。 p140

 以上の考察の後ロックは3つの点から自然法は法としてのすべての必要条件が備わっていると主張する。

 まず第一に、それは上位のものの意志による命令であり、法というものの形式的な要因はこの点にあるように思われる。ただしそれがどのようにして人類に知られうるかは、のちに論ずるべき問題であろう。第二にそれは何をなすか、あるいは何をなすべきでないかをさだめている。このことは法というものにふさわしい働きである。第三にそれは、それ自体のうちに義務を設定するのに必要なすべての条件をふくんでいるから、人々を拘束する。たしかに自然法は実定法と同じようには周知せしめられていないけれども、しかしそれは自然の光のみによって見出すことができるのだから、人々によく知られており、人々を拘束するのにはそれで十分なのである。 p140

 以下第四段落以降で自然法の存在に関しての議論が進む。

以上のことを考慮したうえで、そういう自然法の存在は次のような議論によって認められるであろう。 p140

自然法の存在を証明する議論

第一の議論:理性の命令から導かれる

第二の議論:人々の良心から導かれる

第三の議論:世界の構造から導かれる

第四の議論:人間の社会から導かれる

第五の議論:美徳の存在から導かれる

自由討議の合間に...

 さて、ジョン・ロックの所論を続けて見て行きたいところですが、例によってより道をいたいします。
 id:nomurayamansuke (以下:萬氏)とid:Barl-Karth (以下:Barl氏)の間で自然“権”(傍目で見る私には両人の議論は自然“法”をめぐってではなく自然“権”についての議論に思われる)について議論がなされているようで、Barl氏の反論中においてなにやら私が弁護人として召喚されているように思われたので二、三の点で弁護をしたいと考える。
 さて、弁護人としてこの度はジョン・ロック氏に証人をお願いしたいと思う。何故か?
 まず、第一にロック氏がプロテスタントの熱心な信徒であるから。第二、それでいてロック氏は自然法論を信仰の立場より擁護するから。第三、多くの人たちがロック氏を民主主義と自由主義の擁護者であると考えるから。第四、にもかかわらずロック氏の自然法論には幾つかの欠落が存在するから。
 ここで、トマス・アクィナスの所論で論じてもよいと思うのですが、何かというとカトリックはすぐに上から目線で自説の擁護するばかりの石頭であるといわれるのもいやですし、両論つまり萬氏とBarl氏に近いが、それでもその両者とも異なる立場から論じてみるのが読者のために適当であるとも考えるからです。

続きと小休止

 一段落に時間をかけ過ぎた気もしますが、第一段落は以下のようになります。続く議論で明らかにされますが、ロックは自然法を自然の光により認識可能な神の意志であると解しています。この理解の枠組みは後の『市民政府論(統治論)』においても原則として変化しているとは思えません。ロックの自然法論は“近代”自然法と呼ばれることが多いのですが、自然法論の前提としての神の存在、認識の前提化に関しては中世の自然法論と同様ではないか。ただ、異なる点(無論以後の議論で参照していく)はむしろ自然法そのものではなく、前提とされる神理解つまり創造主としての神と被造物としての人間理解においてプロテスタントの信仰理解とカトリックの信仰理解から導かれているのであって、前提とされる神自体に違いはない。
 極論するのであれば、私とジョン・ロックとの間では少なくとも前提、始点を共有しながらその理解の相違を問題とするだけですむが(それはお互いの信仰ゆえに)、そうでない読者にとっては前提とされている神自体が問題となるし、問題とされなければならない。
 この点がこれはロックに限らず他の思想家の理解を阻む大きな壁となっているように感じられる。

目次(暫定)、メモ

 

自然法認識における神論の必要性について 〜John Locke's Natural Law に沿って〜

註解部
Q1:道徳律、あるいは自然法はわれわれに与えられているか。
A1:与えられている。
Q2:自然法は自然の光によって知ることができるか。
A2:知ることができる。
Q3:自然法は人々の心のなかに刻みつけられているか。
A3:刻みつけられていない。
Q4:理性は感覚をとおして自然法の認識に到達することができるか。
A4:到達することができる。
Q5:自然法は人々のあいだの一般的同意から知られるであろうか。
A5:知られることはできない。
Q6:人間は自然法によって拘束されているか。
A6:拘束されている。
Q7:自然法の拘束力は永遠で普遍的であるか。
A7:永遠で普遍的である。
Q8:各個人の利益は自然法の基礎であるか。
A8:そうではない。
小論部
1-1 神論の概要(造物主及び被造物としての人間の位置づけ)
1-2 恩寵としての啓示及び自然理性(諸々の認識の基礎)
1-3 道徳律ないし自然法の認識

へ理屈派の弁明

自然法認識における神論の必要性について 〜John Locke's Natural Law に沿って〜


小論
1-1 神論の概要(造物主及び被造物としての人間の位置づけ)
1-2 恩寵としての啓示及び自然理性(諸々の認識の基礎)
1-3 道徳律ないし自然法の認識

はじめに

 以下における論考はEssays On The Law Of Nature: The Latin Text with a Translation, Introduction and Notes, Together with Transcripts of Locke's Shorthand in his Journal for 1676に対してのコメンタリー(註解)の形式で行う。端的に述べてまとまった読書ノートの以上でも以下でもない。翻訳については浜林正夫訳(『世界大思想全集 ホッブス・ロック・ハリトン』1962年、河出書房新社)を参照した。
 ロックは本書で自然法について8つの問いを立てそれに順次説明を加える形で議論を展開する。以下八つの問いに従いながら議論を進める。

問一:道徳律、あるいは自然法はわれわれに与えられているか。与えられている。

  • ロック『自然法論』において提示される神認識に関して

 本題冒頭においてロックは神の存在証明の議論を行う。ただ此処においてロックは神の存在証明を議論するというよりも以下の自然法議論の前提として神の存在証明(以下存在証明含め神の特質等の議論を含んだ『神論』とまとめることとする) を提示すると述べた方が適当である。
 多くの読者にとって(この場合、日本語を解する読者)神の存在証明をはじめとして『神論』に属す事柄は違和感と取っ掛かりのなさを感じさせると思う。多くの人にとって道徳律、つまり実践理性とは人間に関わる事柄であり、神論ではなく人間論から扱われるべき課題であると考えられるであろう。しかしながら、此処で扱うロックにしてもそうであるし、中世期の神学者であるトマス・アクィナスにおいても人間論の前提としてまず神論の議論がなされている。このたびの議論においてトマス・アクィナスの『神学大全』を扱うことは意図していないが、『神学大全』中の自然法論、ないしトマスの倫理神学を扱う場合にも第二部の各論のみから議論するのではなく第一部の神論の議論との連関において扱わなければならないと筆者は考える。
 以下、具体的にロックの議論を見ていくこととする。(以下引用断りのない限り浜林訳)
 

 神はいたるところでみずからの存在をわれわれにしめし、過去においてしばしば奇蹟をあらわしたように現在においても自然の規則正しい運行のうちに、いわばその存在を人々の眼におしつけてくるのである・・・p139

 ロックによれば、この東の果ての島国においても神はわれわれに神自身を示しているそうであるが、キリスト教徒の考える神というのはどうにも押し付けがましいらしい。皮肉はともかく、ロックは“過去”における、これは当然聖書においての「奇蹟」この奇蹟は聖書の中で救い主として記されるイエス・キリストが行ったもの、が神の示す神自身の存在であり、また現在において神は自然の規則の正しい“運行のうち”に自身の『存在』を示すとしている。
 ロックの述べる『奇蹟』つまり聖書に見られる神の業による神自身の提示を“啓示”によるものとし、自然の規則の運行のうちに見られる神の働きによる提示を“自然の光”によるものとする。此処で問題とされるのは自然の光により捕捉できる神(所謂“哲学者の神”)と聖書に示されている神(所謂“アブラハムの神”)とがどのような関係におかれているのかである。
 聖書及び自然(被造物)の働きの内に神の存在は明示されている以上、ロックは 

どんな人であろうと、人生の合理的な説明の必要を認め、美徳あるいは悪徳とよぶべきものの存在を認める人であれば、神の存在を否定する人は一人もないだろうと思う p139

と述べる。
 なおロックは晩年の『キリスト教の合理性・奇跡論』(服部知文訳、岬書房、1970)において、啓示の問題を扱っている。当然ながら自然理性による神認識に関しては『人間知性論』やロックの自然学、自然科学観を含めて理解することが望ましいが、ここではあくまでロックの最初期の著述である『自然法論』のテキストに沿った形で議論を進めたいと思う。

 

したがって、以上のことが認められるなら、神が世界を支配しているということは疑いえない。天体が常に回転し、地球が固定し、星が輝くのも神の命によるものであり、荒海にかぎりをもうけ、あらゆる種類の植物に発芽と成長の様式と期間をさだめたのも神であり、すべての生物がそれぞれに生誕と生命の法則をもっているのも神の意志にしたがうものであって、この全宇宙の構成のうちに、それぞれの本質にかなった適切な一定の運動法則をもたないほど不安定で、また不確実なものは、一つもないのである。 p139

 ロックはこの時点においては天動説を説明として採用しているが、後に地動説の立場に移った。『人間知性論』第2巻14章21節参照のこと。尚ロックが思索を行った時代はボイルやニュートンが活躍した時代でもあり、自然科学(特にベーコンに始まる経験科学)の発展が他の領域、この場合、神学や哲学に影響を与え始めた時代でもある。このような自然科学の発展により、自然法論は科学実証主義等により近代に批判を受け一時はその自明性を疑われることとなる。現在においても自然法論の認識また存在は問題として取り上げられているが、この問題を解決するためにはロックが自明としている神の存在、また人間理性による神の認識の問題をまず扱う必要性がある。

ロックはこのように所与の世界が神により支配されていることを前提として次のように述べる。
 

したがって人間だけが、計画も規則も生活のさだめもなしに、どんな法則の適用もうけずにこの世にうまれでたのかどうかは探求にあたいすることであるように思われる。至善にして至高なる神について考え、いついかなるところにおいても人類全体が変わることなく意見が一致していることを思い、あるいは自分自身のことやみずからの良心について反省してみさえすれば、何人も、人間に法則が与えられていないとは信じないであろう p139

 メモ:カトリック教会のカテキズムより(後で脚注その他へ移動)

 

第1章 人間は神を「知ることができる」要約部(44〜49)より

 46 被造物の語りかけや良心の声を聞くとき、人間は万物の原因、目的である神の存在の確証をつかむことができます。

 47 教会は、唯一の、真の、わたしたちの造り主であり、主である神を、人間理性の自然の光により、そのみわざを通して、確実に知ることができると教えます。

 3 神認識に関する教会の教え

 36 「わたしたちの母である聖なる教会は、人間理性の自然の光によって、また被造物を通して、万物の起源と目的である神を確実に知ることができると考え、教えています」。この能力なしに、人間は神の啓示を受け入れることはできません。人間がこの能力を持っているのは、「神にかたどって」(創世記1・27)造られたからです。

 37 それにもかかわらず、人間は自分が置かれている歴史的状況の中で、ただ理性の光だけで神を知ることに多くの困難を覚えます。

 38 ですから人間は、ただ人間理性を超えることがらに関してだけではなく、「それ自体、理性によって把握できる宗教的、道徳的諸真理に関しても、神の啓示に照らされる必要があるのです。それは、これらの真理が人類の現状の中で、すべての人に、容易に、揺るぎない確実さをもって、誤りを含まず、知られうるためです」。

 4 どのように神について語るべきか

 39 教会は神を知る人間理性の能力を主張することにより、教会がすべての人に、またすべての人と、神について語りうる自信を表明しています。この確信が、他の宗教、哲学と科学、また無信仰者と無神論者との対話の出発点なのです。